満天の星を眺めながら眠る夢

風を動力源とするヨットは、地球環境にやさしい乗り物だ。
saiブランドのオフグリッドは、このヨットから着想したものだと以前に書いたことがある。沖縄は本土と比較し、風に恵まれているように感じる。夏は南風、冬は北風が安定して吹き、それに対応するかのように、太平洋、東シナ海と季節によりフィールドを変え1年中ヨットを愉しむことができるのだ。とはいえ、車で走ると小さな沖縄本島だが、風だけで帆走るヨットには大きな島だ。
例えば、先週、友人の30ftのヨットを糸満から与那原に回航したのだが、26マイルの工程に6時間を要した。つまり4.3knot/h(約8km/h)と自転車の平均速度(15km/h)の半分ほどのスピードだ。沖縄本島一周は約300kmなので、この速度でノンストップで帆走を続けた場合、37.5時間かかる計算だ。ヨットにとっては大きな島なのだ。

37.5時間帆走り続けるためには、交代で海面を見張り操船するワッチが必要だ。このワッチについては、以前、TAKAが面白いエッセイを書いていたので興味のある方は読んでいただきたい。
話を戻すと、ワッチには当然、夜間の当番もあるので、安全を確保するために電気設備は欠かせない。他の船に自船の位置を知らせる航海灯の点灯はもちろんのこと、最近ではAIS(船舶自動識別装置)やプロッター(カーナビのようなもの)、オートパイロット(自動運転みたいな機能)などの電力を使った機器に頼ることが多い。エンジンが作動している時間は、同時にオルタネーター(発電機)が発電してくれるので、機器を動かすために必要充分な電力を得ることができるのだが、ヨットマンとは風だけで帆走るのを好む種族で、できるだけエンジンはかけたくない。そうなるとバッテリーの容量は減少する一方だ。なので最低二昼夜くらい電子機器を使い続けられるバッテリー容量はほしいし、昼間は電子機器を稼働させる電力以上の ソーラーパネルの発電能力がほしい。

今回、バッテリーの入れ替え作業を行った際、ソーラーパネルで発電した電力をコントローラーを介し、現役を退いたバッテリーに充電する試験を行ってみた。曇天でもパネルは20V以上発電しており、コントローラーからは12.5Vの安定した電力がバッテリーに供給され、あっという間に容量は100%に達した。電子機器の電力は2台のSRV(service)バッテリーから供給する仕組みにしているので、試験で問題がなければ、ソーラーパネルで発電した電力をSRV回路に流したい。

Nydellはまだレストアが続いているため、デイクルージングには出かけられるが、まだ、泊まりを伴った長距離の航海はキビシイ。あとはオートパイロットを装備すれば一連のレストア作業の第一章は完了する。
沖縄の離島の砂浜にアンカリングし、室内灯などの余分な明かりはすべて落とし、満天の星を眺めながら眠る。それが実現する日はもう近い。

vol. 22 「シュッとしてる」

ハワイへ来てから集めたアロハシャツ。新作もあるけどビンテージが多い。

 国を跨いできた経験から僕の処世術は、ちょっとばかり見たくれを気にしている。その土地に暮らす人たちに同化できれば良いが、ヨーロッパやアメリカにおけるアジア人はマイノリティだし、母語である日本語と現地のことばは余りにもかけ離れているし、そもそも文化的背景も大きく違うから否が応でも目立ってしまう。多くのローカルにとって、今まであまり接したことの無い日本人とあって、最初は客人扱いされ持て成してくれることは嬉しいものだが、いつまでもヨソモノ扱いもされたくない。第一印象は一秒で決まると言われるだけに、せめて相手に嫌悪感を与えないテクニックとして、身なりはちゃんとしておいた方が良いと心がけてきた。

 ヨーロッパで仕事していた頃、事あるごとにドレスコードが求められた。時間や場所、それに与えられた機会に合った服装や所作というものがあるという教えだ。駐在前の日本では皆と同じ横並びのサラリーマンスタイルだった。 親しい友人がイタリア人だった縁で ポルトガルではミラノのモンテナポレオーネ通りで見繕ってもらった伊達男の恰好をしていた。イギリスでは断然、背広姿でロンドンのセビル通りの仕立屋のスーツを纏い、磨き上げた厚底の黒革靴を履いていた。エグゼクティブとして仕事をするようになると、僕自身ではなく組織を疑われてはたまらない。所以、それっぽい恰好をするようになった。

 メキシコに居た頃、シティのタワマンに住んでいた。付近は低層住宅がひしめき、日陰には野良犬が寝そべり、道端はどことなく臭ったが、週末に立つ近所の市場へ出掛けるのは好きだった。ほぼ寝間着と化した着古したTシャツにサンダル履きで出かけたある日、自宅に戻れず往生したことがある。マシンガンを携えた門番が疑いの目を向け IDを見せても ゲートを通してくれず、わざわざ社用専属の運転手を呼んでマンションの車寄せへ付けてもらったことがある。治安の悪い地域では二重三重のセキュリティは大事なポイントで、こういったゲートコミュニティは住人であろうとそれなりの恰好でなければ憂き目に遭う。それが此処ハワイではアロハにサングラス、式典の際にはレイを纏う。神主ならぬ祈祷師が来て、まずは恵みに感謝することが習わしだ。正にところかわれば品変わるのだ。

  転じて、オフグリッドにも矜持があるとすれば、見たくれも大事だと思う。山奥や無人島で暮らすのならまだしも、あくまで現代社会で生き、およそ文明的な暮らしに電気は不可欠だ。ソーラー発電は昭和の時代からあったが、未だに無骨な発電パネルと再処理できない蓄電池の組み合わせが多い。雨水を溜めたドラム缶を風呂代わりにするには少々、野趣に飛び過ぎている。ハワイは全ての電力の再エネへの置き換えに挑戦しているので全米一電気代が高いが、その分個人宅のソーラー発電は、テスラがつくった薄くて壁掛けの液晶テレビのような見たくれで隠れている。ある知人は、購入した住宅にソーラー発電が付いていたので、ハワイ電力への支払いが無いというから羨ましい。我が家はソーラーパネルは無いが地域全体が再エネ電力の供給網で、照明は全てLEDだし、雨水タンクは土中に埋めこまれ、自動ポンプで潅水に使われており、かなりエコ仕様になっている。シーリングファンは回転の方向で上下に風をコントロールできるし、雨季でも暖を取るほど寒くならないから、年がら年中アロハとTシャツ姿で過ごせる。なるほど理に適った格好というわけだ。

 それ見よがしに「オフグリッドやってます」というのは格好が悪い。アロハにグラサンと聞けば昭和のチンピラを想起させるが、ハワイではこれがシュッとしているのだ。

ヘミングウェイ考

先日、結婚記念日に近所のホテルへ出かけた。目当ての和食のレストランはインバウンド客で満員だったが、隣り合うBARで和食レストランのアラカルトメニューを注文できるそうで、このBARのカウンター席に腰を降ろした。
10月中旬の沖縄は、夕暮れ時でもまだ夏の陽気で、徒歩5分のホテルへ行くにも汗ばむほどだ。まずは生ビールを注文し、海を背にしたカウンターで、冷気で身体を冷ましながら、つまみとビールを楽しんでいると、目の前の女性バーテンダーが各テーブルから注文をされたカクテルを丁寧につくっていた。1杯目のビールを飲み終えるまでに、3~4杯の美しいカクテルができ上った。思えばここしばらく、カクテルと呼ばれる酒を呑んだ記憶がない。ビールを飲み終えると、女性バーテンダーに「仲のいいご夫妻なので”サイドカー”などいかがですか」と勧められるまま注文し、久しぶりに甘いカクテルを味わった。背後の大きなガラス窓には、海の向こうの慶良間諸島に沈んだ夕日が残したマジックアワー、日本語だと薄明というらしい。つかの間のサンセットタイムを愉しんだ。この時、ふと、若い頃によく読んだヘミングウェイを思い出した。

幼い頃から海が好きだったので「老人と海」や「海流の中の島々」など、ヘミングウェイの小説はほとんど読み、そこに描かれる南国の海やライフスタイルに憧れたものだ。そう、今は夢を叶え、当時、理想としていたヘミングウェイのように南国の海沿いの小さな町で暮らしている。カクテルの種類やおおよその味はヘミングウェイから学んだようなものだ。そう気づくと居ても立っても居られず、翌日、地下倉庫に保存している古い文庫本の山を漁り、ヘミングウェイを探した。東京を去る時に、読み返すかもしれない文庫本を雑多に選び、大半をブックオフへ送り出した。ヘミングウェイは沖縄行の山に収まったはずなのだが、探しても3冊しか出てこなかった。それも上下巻の下巻、上中下巻の中巻、それと「老人と海」。仕方なしに薄い「老人と海」を読み返すと、自分の年齢が上がっている分、当時と異なる感覚で読むことができた。きっと若い頃は海の様子や、釣りの感覚、鮫の暴挙など、文章の表面的な部分しか感じていなかった。今では老人の年の離れた友人(少年)への配慮や、年を重ね衰えた体力を補う経験や思考など、当時では感じられなかった文脈に響く。もちろんそこには文明の利器は登場しない。そんなものはなくても人間は幸せに生きることができるのだ。1961年に62年の生涯を自ら閉じたヘミングウェイ。第二次大戦を経験したことから、著書には戦争の無意味さを説く作品も多い。

混とんとする現代、人はこんなに便利になった世の中でもまた同じ過ちを繰り返そうとしている。温故知新。リスキリングを推奨し、老人を経済活動に参加させなければならない世の中はどうなんだろう。たくさんの経験を積んできた人たちに、古きよきものや、世の中が間違えてきたことをきちんと若者に伝えてもらうような仕組みをつくった方が、よっぽど良い世の中になるような気がするのは僕だけだろうか。今の世界を俯瞰して、ヘミングウェイなら何を想い、伝えようとするのだろうか。

vol. 21 「覆水、盆に返らず」

カリヒポンプ場は1899年から使われ、当時は蒸気機関の揚水ポンプだった

 いまや鯨といえば観るものだが、給食に鯨肉が出ていた昭和世代にとっては、鯨は食糧として広く親しまれていた。さらに時代を遡ると、鯨油は暖房やランプ、産業機械に使用され、鯨骨はコルセットやスカートのフープ、傘、馬車の鞭などに幅広く利用されていた。ハワイには、ニューイングランドの捕鯨船との貿易で栄えた歴史があり、島々の肥沃な土地が捕鯨者たちの食糧や水を賄っていた。ハワイ語で水を「Wai」、湧き出る場所を「Kiki」といい、当時の捕鯨船は、積んだ木樽を小舟で運び真水を確保していた。その場所が現在のワイキキにあたる。さらに公共の近代水道の歴史も古く、1848年には既に井戸からポンプで揚水し、貯水池が地下に設置されていた。

 20世紀に入ると、国防上の理由から太平洋艦隊が1907年に創設され、現在では艦艇約200隻、航空機約2000機、そして24万人規模を有する統合基地へと発展した。1941年、石油需給に窮した日本軍の奇襲攻撃を受けて沈没した戦艦アリゾナは今も真珠湾に眠っている。当時から空襲に弱い地上の燃料貯蔵タンクは地下に移され、近くの山に20基もの燃料タンクが埋設されてきた。その総量は二億五千万ガロンにのぼり、東京ドームに匹敵する容量である。最初のタンクが設置されてから八十年以上にわたり使用され、その間、海軍の艦船は大型化し、空軍基地への軍用規格のジェット燃料供給をも賄われてきたのだから凄まじい。

 帯水層からの揚水による水道システムと真珠湾の統合基地への燃料供給システムは、地中深くに縦横無尽に張り巡らされている。「Red Hill」と呼ばれる火山島特有の赤い土で覆われた山腹の地中浅くに埋蔵された燃料タンク、深くに淡水帯水層が上下に存在する。タンクの老朽化による水源への影響は以前から指摘されていたが、遂に2021年11月、施設内の配管やバルブから燃料が漏れ出し大事な帯水層に浸潤してしまった。この水源から飲料水が供給される地域にはミリタリーハウスが建ち並び、多くの兵士やその家族、軍属が暮らしている。健康被害はたちまち拡がり、汚染物質が洗い流されるまで水道システムは使用禁止措置が取られた。飲料水は紙パックで供給され、9万人もの住民が一時避難を余儀なくされ、応急処置が終わったのは2022年3月だった。結果、立坑からの揚水も中止され、汚染された二か所の井戸は閉鎖された。埋設した燃料タンクからの燃料の汲み取り作業は今も続き、いずれ閉鎖されることが決まった。

 僕はそのタイミングで空き家となったミリタリーハウスのひとつに入居した。今でも我が家には国防兵站局とハワイ州保健局の係官が定期的に水道のサンプル採取に訪れ、米海軍と環境保護庁による説明会が四半期ごとに実施されている。一度汚染された水は飲料水としては不向きで、シャワーやトイレ、庭の潅水には使用できるが、飲料水は配達に頼っている。夫婦二人で月120~150リットル程度を必要とし、無駄遣いをしなくなった。日本にいた頃、蛇口の水質を気にすることはほとんどなかった。この事故をきっかけに、水源に思いを馳せ、水の安全性とありがたさを改めて感じている。「流水は腐らず」と言うが、今回の事故は「覆水、盆に返らず」といったところか。 

内水氾濫?水くらい処理したい。

写真の下側にあるコンクリートブロックに囲われたエリアが蒸発散装置

オフグリッドは電気だけではない。ここでは下水からオフグリッドをするために、汚水の蒸発散装置を採用している。というのもきちんと整備された下水道がないため、建築確認の際に確認したところ、汚水は敷地に面している農業用排水路に流してほしいということだった。しかしこの排水路を辿ると、そのままビーチへ排出されており、ここに汚水を流す気になれなかったのだ。そこで計画したのが「蒸発散装置」だ。写真の下側にコンクリートの縁石ブロックに囲われ、あきらかに他よりも芝生の緑が濃い区画が確認できると思う。写真右手に浄化槽の蓋が見えると思うが、ここで浄化したものを、蒸発散装置へ流し、蒸発させている。

システムはシンプルで、5m×2mのFRP製の箱へ浄化槽からの汚水を流し込む。箱の中には2本の塩ビパイプを走らせている。ろ過材を仕込み、孔のあいたパイプを砕石上に乗せ、改良土材、発生土を積層し、芝生を植生している。浄化槽は5人槽で一般家庭の容量だ。年に1度、点検口をあけ、パイプを取り出し洗浄する程度のメンテナンスでよく、4年間使用しているが、よほどの大雨が続かない限りは問題なく機能してくれており、地方での採用事例が増えることを願いたい。

他方、地下を使いたくても共同溝や地下鉄、高速道路の走る都市部では困難だ。近年のゲリラ豪雨は50mm/hという下水処理機能を大きく上回る。倍の100mm/hを越えることもしばしばだ。
さらに地表はアスファルト、インターロッキング、コンクリートで覆われているため、降雨量の大部分が下水へ流入することになる。そう。地方のように浸透させてくれる土壌がないのだ。東京在住時は雨の日でも何も気にすることなく歩いていたが、ここ(沖縄県糸満市名城)では雨が降ると道には雑草がはびこり、靴はぐしょぐしょになってしまい不快だ。それに月に何度も草を刈るのは相当な労働力だ。しかし、どんなに雨が降り続いても浸水することはない。つまり、津波にでも襲われない限り、構造的に内水氾濫などが起こるわけはないのだ。

出典:NEWSポストセブン

温暖化による気候の変動により、「想定外」「これまでに経験したことのない〇〇〇」などという表現が増えた。実際に今夏は平年よりも平均気温が1.7度も上昇し、異常気象と発表された。「災害が頻発する今を”ニューノーマル”として認識し、対策を講じなければならない」などと解説者は言うが、都市の地下をいじるのはそう簡単なことではないだろう。気づこうよ。都市に住むことの危険性に。バリアフリーもいいけれど、このくらいの自然現象に耐えられない都市基盤に住み続けることの危険性を。人類の安全・安心・快適を求めて整備してきた都市整備が、返って人類を苦しめることになるとは、それこそ「想定外」だ。
かくいう当社の東京事務所は海抜ゼロメートル地帯にある。

vol. 20 「港に辿り着くこと」

船首には等身大のアメリゴ・ベスプッチが水平線の彼方へいざなう

 2年に一度、ハワイ周辺海域で実施される環太平洋合同軍事演習(RIMPAC)が終わった。発表によると参加したのは29カ国、艦艇40隻、潜水艦3隻、航空機約150機、人員2万5000人と桁違いの大規模だった。日本の海上自衛隊から護衛艦「はぐろ」や輸送艦「くにさき」、対潜哨戒機も訓練に加わったが、中でも訓練の指揮を執るアメリカ海軍の原子力航空母艦「カール・ビンソン」は、乗員3400名、航空団2500名、司令部100名、約6000人を乗せサンディエゴからやってきた。排水量10万トンを超える空母が狭い真珠湾へ入港する雄姿はまるで映画のワンシーンを見ているようだった。およそ一か月にわたる公海上での軍事演習に加え、沿岸の攻防を想定した上陸訓練やジャングル侵攻、災害を想定した救難救急、さらに気象学や海洋学シンポジウムなど多岐にわたる演習や訓練を終えた兵士たちは再び艦船に乗り組み、三々五々、真珠湾を後にしていった。

 時同じく もう一隻、 イタリア海軍の船がピア9に接岸した。将校16名、下士官70名、それに水兵を合わせ約200人が乗船した練習帆船の名は「アメリゴ・ベスプッチ」、そう新大陸の発見者であり、彼の名からアメリカという地名は付けられた。この船は1931年の就航以来、イタリア海軍の全ての水兵が士官候補生として訓練を受けてきた由緒ある歴史を今日に紡ぐ。今回は2023年7月にトリエステを出港して以来、欧州から西アフリカ、南米大陸を反時計回りに各港を経由し、ロサンゼルスから約二週間かけてやってきた。ホノルルには一週間の停泊後、次の寄港地、東京まで約一か月かかるそうだ。イタリアへ戻る2025年2月まで、一年半以上の地球一周の航海訓練が続く。まるで15世紀の大航海時代を彷彿させる。

 三年前、再生可能エネルギーのみを使って航行するフランスの「エナジー・オブザーヴァー」がサンフランシスコから20日間かけて機帆走してきた。太陽光・風力の再生可能エネルギーや海水から生成した水素を燃料に用いる世界初の「自立エネルギー型燃料電池船」だ。去年の今頃、トランスパック・ヨットレースに出場した私の旧友チャーリーは、 風を読み帆を操り、 ベネトゥのモノハル艇でロサンゼルスから7日間で帆走してきた。なかなかのツワモノだ。

 空母からヨットまで船の大小あれど一度港を離れるとオフグリッドとなり、どんな状況であれ次に寄港するまで諦めるわけにはいかない。それには飲料水や食糧、船を走らせる動力と燃料の確保、さらに正確な航海術が必要なのだ。順風満帆の日ばかりではあるまい、波瀾万丈な時もあろう、キャプテンもクルーにも判断力と忍耐力が要求される。

「アメリゴ・ベスプッチ」の艦橋にイタリア語でモットーが刻まれている。            

Non chi cominicia ma quel che persevere

「先陣を切る者より、最後までやり遂げる者であれ」と訳する。 そう、作戦をやり遂げるまで、そして港に戻るまで諦めるわけにはいかないということか。 なるほどオフグリッドは生半可な気持ちで向き合ってはいけないんだと改めて思った。

パリ。華の都。

出典:NHK

パリオリンピックが閉会した。テレビ観戦するも7時間の時差は大きく、興味のある種目はLIVEで見たいがなかなかそうはいかず。そんな中でも開会式、閉会式は眠い目をこすりながら遠い国の「今」を傍観した。
感じたのは東京五輪との違いだ。当時東京は 「世界一コンパクトな大会」にするとされたのに、運営費用が1兆6989億円にまで膨れ上がり、国と都が支出した関連経費も合わせると合計で3兆6845億円もかかった。 一方、パリオリンピックは既存施設や仮設の利用が促進され、 90億ユーロ(1兆 5千億円)と東京のそれと比較し大きく下回った。

東京五輪の開催へ向け東京中が整備されていた頃、僕はそこで生活をしていた。特に有明のアクアティックセンターは犬の散歩でよく行ったもので、基礎工事から棟上げまで工事の様子を見学した。最新の工法が採用され、技術者としては見学し甲斐のある現場だったが、閉会後の運営費はさぞかし嵩むのだろうと懸念した。その懸念はコロナ禍による無観客開催によりさらに大きくなり、閉会後のランニングコストはもとよりチケット収入さえなくなったのだ。世界中の想定外の事象とは言え、無観客で開催する是非が問われた。閉会後、組織委員会と外注先との賄賂問題も発覚し、五輪の腐敗構造も指摘された何とも後味の悪い東京五輪となった。

そんな東京五輪から3年が経過しコロナ禍も収束し、以前のような有観客で開催されたパリ五輪は華やかだった。「花の都」と表現されるが、今回は「華の都」だと感じた。パリ五輪で取り組んだSDG’sへの取り組みは専門サイトを参照してほしいが、メインスタジアムのスタット・ド・フランスをはじめとし、エッフェル塔前やコンコルド広場、ヴェルサイユ宮殿、グラン・パレなどの「花の都」の主要施設を会場として利用したことが「華」だ。これまでの歴史へのリスペクトを意気に感じるし、天晴(アッパレ)で、文化や発想の違いを痛感できた。このことがロスへ続く「建てない五輪」への大きな布石となり、商業主義五輪からの転換となるのだろう。

称すべきパリ五輪でも課題は発生した。個人的にはセーヌ川の水質浄化への取り組みが不燃焼に終わったことは残念だったのだが、世間的には選手村のアスリートの生活に課題が残ったとされる。
選手村の地下水を利用した冷房システムや壁の断熱、ブラインドの活用などで選手村のエアコン設備が不要になり、史上最も環境に優しい大会が実現できると期待されていた。しかし熱波の到来などもあり、選手側からの強い要望もありエアコンの取り付けを認めたそうだ。特にアジア圏の選手からの要望が多かったそうだが、伝統的にエアコン保有者が少ない フランスの選手でさえ同調したとある。食事も同様に地産地消にこだわり、提供される料理の80%がフランス産、さらにカーボンフットプリント削減のため野菜中心の料理を重視していて、全体の1/3がベジタリアン料理を締めたそうだ。だが、各国選手団から「肉が足りない」といった不満が相次いだため、肉や卵料理のメニューを増やすなどの対策をしたそう だ。アメリカのバスケットチームなどははなから高級ホテルへの滞在を決めており、選手村のエアコンや食事といった問題とは無縁だったようだが。
このようにコンセプト(理想)と現実は異なるようで、それは以前ここでも書いた「つまり、暮らし方」によるものだ。エアコンの設置を求めたアジア圏の選手や肉を求めた選手たちを否定することはできないが、世界的な標準をどこに定めるのかという大きな課題が浮き彫りになった。
意識の分断や生活水準の格差が拡大している世界。メダルの数は国のGDPと比例すると力説する解説者もいる中、GDPの低い国の選手や難民選手団などはこれらの課題をどう見るのだろう。彼ら、彼女らにとって、パリはきっと「華の都」に映っただろう。

vol. 19 「確かにパリに見えなくもない」

深夜便で訪越すると、朝靄にけむるホーチミンの街並みが眼下に広がる。高層ビル群と古い町並みが同居する懐かしい景色。

 オアフ島よりちょっと広い面積に10倍の人口が住み、かつては「東洋の小パリ」と呼ばれたホーチミンを訪れた。サイゴンと言った方が馴染みの諸兄もいるだろう。メコン河の支流が市内を蛇行し、無数のバイクはまるで滝のように流れる。ハワイで緩やかな時間に慣れた私には隔世の感がある。日の出とともに早朝から歩道にはバトミントンに興ずる老人たち、それを横目に屋台でPhoを啜る出勤前の青年たち、アオザイを来た女学生まで、街に人とバイクが溢れている光景は カオスと表現したらイメージが湧きやすいか。

 ベトナムは市場経済化政策のもと外国資本を積極的に受け入れ、90年代から実質GDP成長率は10%を越え、それはかつて日本が経験した70年代の高度成長期と重なる。港の近くには工業地帯の煙突が建ち並び、農村部から都市部への集団就職や出稼ぎで人が溢れ、物価も給料も右肩上がりだったあの時代だ。ベトナム経済はパンデミックを挟んで現在でも5%以上の成長が続いている。そして同時に経済成長は化石燃料消費とCO2排出を著しく増大させた。それは1986年に経済改革「ドイ・モイ」が始まって以降、15倍以上というから凄まじい。

  約30年前初めて訪れたベトナムは、人々は ラタニアの木の葉でできた「ノン」と呼ばれる伝統的な葉笠を被り、街は自転車で溢れていた。シクロは前二輪、後一輪の三輪車で、前方に乗客や荷物を乗せて車の間を縫うようにゆっくり動いていた。今と比べるとまるでスローモーションのような動きが懐かしい。 車やバイクも排ガス規制により4スト化や電動化が進み、格段に個々の車体はクリーンになったが、それを凌駕する数が靄がかかったように空を曇らす。

 僕の幼少期、「光化学スモッグ注意報」が発令されると体育の授業は中止され、給食を食べたら下校措置となりガーゼのマスクをして家路を急いだものだ。半世紀を経て、ここベトナムでも同じ風景に心がざわつく。経済を優先することの代償がどれだけ大きなものか我々は知っている。電気の無かった時代へ戻れとは言うまい。せめて都会の空気が澄んでいることを願いたい。

コネクトする?オフグリッドする?

SNSをブラウズしていたら「隅田川」という見出しに目がいった。東京事務所は隅田川の近くだし、「すみだリバーウォーク」というsaiブランドを代表するような作品に参画することができた思いいれのある地名だ。
見出しの「隅田川会議」-CONNECT-。
解説に”東京のシンボルである隅田川の利活用を市民レベルで考え、未来へ向けたつながりを築くための会議です。”とあるが、何か違和感を感じた。

自己分析をすると「隅田川」という思いいれのある地名に「CONNECT」という最近キライな単語が接続されていることに違和感を感じたようだ。
「CONNECT」 =「つながり」
最近この「つながり」という単語が重要な局面に、しかし軽く使われているような気がしてならない。隣に誰が住んでいるかも分からない都会での生活では、防災、防犯上、希薄であっても最低限のつながりを持っておく必要があった。それは仕事上でも同様で、いわゆる「おつきあい」は最低限のつながりを維持するための安易な手段だった。それがいつしか希薄なつながりであれば不要と感じるようになり、移住前に人脈の断捨離を断行した。これが功を奏し、東京から遠い移住先まで訪ねてくるのは生涯つき合えるであろう気ごころの知れた友人ばかりだ。

思えば 「CONNECT」は 僕らの目指す「OFF GRID」の対義語なのかもしれない。希薄なつながりからオフグリッドした今は、充実した時間に満ちあふれている。なぜ人は「つながり」を求め集まり、そして密集するのだろう。それを叶えるために電気や水道、ガスなどのインフラは都市に網目(グリッド)のように張りめぐらされ、そこに安定的にエネルギーを供給するために原発や火力により発電された電力や、かの国から輸入されたガスが流される。そして「安全・安心」を御旗に道路はアスファルト舗装され、せっかく育った樹木を切り倒した挙句、「経験したことのない猛暑なので、命を守るためにエアコンを使ってください」ともっともらしく人々を扇動する。

勇気をもって都市からオフグリッドすると、都市生活では味わえなかった自然の力を感じるとともに、自然界のバランスを取ろうとする力に唖然とすることもある。自然界のバランスを崩す要因が人々の希薄で安易なつながりを求める心だとすれば、そろそろ自然だけでなく社会にも多くの影を落とすことにもなろう。昨今の日本の政治家たちの所業や都議選、都知事選など、あきらかにおかしな事象として表れはじめているように感じる。

東日本大震災や能登半島地震など、あのような大きな天災の中で人々が互いを想い、つながることは人として大切なことだと思う。
しかし、この100年の人類の所業は現在の地球温暖化につながっており、それは人類そのものの存在を危うくするレベルにまで達している。そろそろ「つながり」について再考し、希薄なつながりからオフグリッドし、地球環境や未来にコネクトするアクションに移行すべきだろう。

※本記事は冒頭の隅田川会議-CONNECT-について評論をしているものではありません。
むしろ未来に向け、しっかりとしたつながりを築いていただきたいと思います。

vol. 18 「日本人からオフグリッド!?」

近くにカリフォルニア大学バークレイ校があり、ノーベル賞をもらうと構内駐車場がもらえる。受賞者は既に56人を数える名門。

 とある週末の朝、高齢のご婦人たちはベーグルを片手に麻雀に興ずる。サンフランシスコの対岸にあたるイーストベイには70年代の倉庫を改装しスタートアップで起業したマイクロブリューワリーやコーヒーショップが点在している。通りをワンブロック隔てるとホームレスが焚き火をするようなヤバいエリアなのに、おおよそ数十ミリオンの投資が集まるのだから不思議だ。ロボットが「手作り」したベーグルにロックスと呼ばれるスモークサーモンとクリームチーズを挟み、近くの別の店でエスプレッソを買って来てブランチにしてみた。これだけでチップを入れて$30(約4800円)するのだ。

 東京でベーグルにコーヒー1杯ならワンコインだと思うと10倍の価値が無ければならない。ひっきりなしに訪れる近隣の住人とおぼしき人たちは、軽装で見るからに着飾った人はひとりも居ない。毛並みの艶やかな犬を連れ、タブレットを片手に颯爽と店を後にする。店の滞在は5分、中にはスケボーで現れた若者も居た。テック系なら20代で10万ドル以上稼ぐのが当たり前だという。この辺りは、どちらかというとガツガツしていないスマートオトナが多く自分らしく生きているらしい

 前日はこの近くで昼間から呑んだ。入れ墨をしたスキンヘッドのバーテンダーに、これまた倉庫を改装しただけのパブだった。隣席のオッサンは携帯片手にのニヤニヤしている。良いことがあったのかと訊ねたら、お前も一口乗るかと出資を誘って来た。知人がスピンアウトしてマイクロワイナリーを興す話があるらしい。儲かるのか?の愚問に、俺はゲームは好きだが賭け事はしないと続く。なんだこの大物な感じは。

 なるほど此処はそういう人たちが棲む街なんだと気付いた。投資が投資を呼び、高い技術や新たな仕組みでビジネスを興し、互いを侵害することなく下町のような持ちつ持たれつな付き合いで、今を刹那的に生きている。そういえばこの近くのマリーナで働いていたウクライナ人も、借りたボートのオーナーはフランス人だし、牌を握るご婦人はイタリア系移民らしい。もはや国籍や人種は無縁のこんな場所に身を置くと、僕も日本人からオフグリッド出来るのかも知れない。