vol. 28「灯台とコルトレーンと」

木の温もりに包まれた音の箱。雑音さえ、時を超える響きに変わってゆく。

 今回の旅でどうしても訪れたい場所があった。ボストン湾口に立つ北米最古の灯台である。1716年に建てられたその灯台は、日本で最初の観音崎灯台よりも150年も早い。独立戦争のさなかに一度は破壊されたが、1783年に再建され、今なお現役で光を放ち続けている。稼働中の灯台としては、メイン州のポートランドヘッドライトに次いで古いとされる。

 その灯台が立つリトルブリュースター島へは、国立公園局のレンジャーが操る船でしか近づけない。登頂はおろか上陸も許されないが、船から仰ぎ見ると、潮風に吹かれながら凛と立つ姿が目に焼きついた。航行が目視に頼っていた時代、灯台は命を預ける道標だった。維持には必ず人の手が必要で、そこに暮らした灯台守の家族の記録も残されている。いまやGPSやレーダーが航路を示す時代となり、灯台の役割は大きく減じた。それでも濃霧や冬の嵐のとき、10秒に一度灯る光は、なお多くの船を導いている。テクノロジーの進歩に押し流されながらも、役割を終え切らずに残る存在感。その姿が胸に沁みた。

 旅から戻ったある日、思いがけず手元にもうひとつの「旧いもの」がやってきた。メインランドに転勤する隣人が置いていったオーディオプレーヤーである。ラジオとレコードプレーヤーが一体となったミッドセンチュリー風の姿に惹かれて裏蓋を外すと、「Made in Japan」の文字があった。真空管ではなかったが、トランジスタ以前の電気回路が整然と並び、1960年前後の製品ではないかと想像がふくらむ。

 久しぶりに「はんだごて」を取り出し、緩んだ配線を結線し直すとラジオが息を吹き返した。針がないためレコードは再生できないが、スピーカーからは少し雑音交じりのハワイのラジオ局の音が流れた。その瞬間、かつて短波ラジオで耳にした米軍放送FENの記憶が蘇る。時間を超えて記憶を呼び覚ます道具の力に、しばし感慨を覚えた。ボストン湾の灯台、そして我が家の古いオーディオプレーヤー。目的を果たす方法は変わっても、いずれも「過去の遺物」と呼ぶには惜しい存在だ。むしろ「古きをたずねて新しきを知る」温故知新という言葉そのものだ。便利さだけを追い求めるあまり、僕たちがいつの間にか手放してしまった大切な何かを、彼らは静かに語りかけてくる。

 ラジオのダイヤルを回してジャズ局に合わせると、コルトレーンの甘いサックスがスピーカーから立ちのぼった。思わず手を止め、冷やしておいたラム酒をゆっくり口に含む。気づけば、部屋の灯りを点けることさえ忘れた夕暮れの薄暗い部屋で、音と酒に包まれるひとときが現れた。そんな贅沢な「オフグリッド」こそ、現代に生きる僕たちに必要な休息なのかもしれない。

南国の庭に、古材で「パーゴラ」をつくる

敷地の南側の畑をお借りできたので「南国庭園」をつくることにした。南国といえば「ヤシ」だ。昨年にハワイのTAKAが来沖した際、ハワイのヤシの画像を見せてもらい、一気に南国=ヤシ化の気運が高まったのだ。ヤシは種類が豊富だが、今回はトックリヤシとマニラヤシにした。しかし、ヤシだらけにしても芸がないので、桟橋型に設計したあぜ道で仕切る小規模菜園をつくったのは、前回の記事の通りだ。ヤシの計画をしながら、横須賀から持ってきた古材を洗い、隣家の塀に立てかけて乾燥させた。

そして2本目の桟橋デッキ(あぜ道デッキ)をつくった。今回は、この2本の桟橋デッキの間に果物用のパーゴラをつくることにした。もちろん、古材と螺杭(鋼製杭)で。

ここは海沿いなので、台風時には風速60m/s近くの暴風が吹きつける。敷地内に設置した木塀の経験値があるので、今回は構造計算は行わなかったが、上部はつる性の植物に覆われても側面は骨だけのスケルトン構造なので、φ48.6mm×L1,200mmの螺杭Tタイプに根がらみ材を渡し、これに支柱をボルトで固定するこにした。

螺杭の頂部側面にφ13mmの横貫通穴があるので、これにM12ボルトを通し、根がらみと連結する構造だ。レベル測量機を見ながら杭天端を揃えて打ち、貫通穴が根がらみと直交する位置に微調整すればよく、あっという間に基礎構造が完成する。

あとはあらかじめ孔加工を施した古材の柱、梁をボルトで締結すれば構造部は完成だ。杭打ち、古材の寸法切り、孔加工、構造組みまでひとりで行うことができるよう設計した。天井のルーバー材を桁の上に載せるか、下に吊るかを最期まで考えたが、僕以外の人が果樹などを収穫することを考慮し、桁から吊るすことにした。上を向き続ける作業は体力的にはツライが、桁上に上らなくて済むというメリットもあった。

パーゴラが2本の桟橋デッキの中間に来るように配置した。今後、実際に果樹を植え、桟橋デッキ間の菜園に野菜を植え、成果が得られるようになったら、図面にある作業台を追加しようと思う。設計当初は横風圧に耐える支保の機能を兼ねようと考えていたが、構造的にはこれでも十分に安定しているので、実際の使い勝手に即したオプションにしようと思う。

こうやってデッキやパーゴラをつくり、自己満足はするのだが、俯瞰して見ると、ヤシやガジュマルなどの自然の造形物にかなうデザインはないと感じる。それでもこのような人工物をこさえるのは、人間が自然の中へ入りやすくする仕組みなのだが、この南国の庭は古材や杭を使用することで、最終的には元の自然の地形に戻すことができるよう配慮していきたい。資源は地球からの借り物だからだ。一見、朽ちたように見える古材も、切断した木口から、美しい断面を確認することができる。使い方さえ間違えなければ、まだまだ長寿をまっとうできるだろう。そして最終的には土に還る。人間も本来はこれと同じはずなのに、何かを間違え、人間も自然も生きづらい地球環境を招いているようだ。

vol. 27「ミートイーター、猟理の流儀」

キハダマグロの部位。半分は刺身で、半分は燻製で戴く

 アウトドア好きの青年が、父の影響で狩猟を始め、獲物を芸術的に食すまでを描くドキュメンタリー番組『ミートイーター』をご存じだろうか。主宰するスティーブンは、その土地の守護者として選んだ獲物を守る義務があると語り、猟期になると全米各地を狩猟しながら渡り歩く。彼が繰り広げる猟師だからこその調理法は興味深い。鹿の心臓を羊膜脂肪で包み、直火で焼く。猪に似たジャベリナの肉を、胃袋に肉詰めして煮る。味わいを追求するのではなく、いかに命を全うするか、その一点にこだわる。今ではシリーズは邦訳され、ネトフリでも観られるようになり、久しぶりにアメリカンアウトドアの世界に触れたくなった。

 アメリカのアウトドア人口は全世帯数の八割にも上り、特にキャンプはコロナ禍で一気に拡大した。対して日本は、登山やハイキング、海水浴といった日帰りレジャーに加え、屋外バーベキュー利用者を足しても二割に満たない。人口比で考えれば、およそ十倍の規模を持つアメリカのアウトドア文化は、彼らの日常に深く根付いている。キャンプにはオフグリッドの要素が詰まっている。自ら背負おうが、車で運ぼうが、必要な道具は自分で持ち込み、野山や海辺で食住を楽しむ。手間やコストを考えればスーパーで買えば済むが、 食糧をフィッシングやハンティングで現地調達することは、何よりもエキサイティングだ。

 仲間に誘われ、アラスカへ出かけたことを思い出す。ケチカンの街から水上飛行機を乗り継ぎ、辿り着いた小島で、大物のサーモンやオヒョウを狙った。夜明け前、ガイドと共にアルミ製の小型ボートに乗り、大自然を満喫した。白頭鷲が空を舞い、鯨が潮を吹き上げる。夕暮れには仲間と獲物を焼き、火を囲んでバーボンを煽る。携帯やパソコンと無縁の数日間だった。漁期終盤だったせいかキングサーモンを釣り上げたのは僕だけだった。本来ならリリースすべきギリギリのサイズだったが、獲っても良いとされたその魚には、Smallest King Salmon Certificate(一番小さなキングサーモン賞)が贈られた。そして夜な夜な語り合ううち、次はハンティングに行こうという話になった。

 まずは講習会に通い、試験に合格しなければ狩猟許可は得られない。基本は鳥獣駆除が目的だが、七面鳥、雉、水鳥、渡り鳥などのバードハンティングと、猪、鹿、エルク、熊といったビッグゲームに大別されている。捕獲した鳥は一羽ごとに、収入印紙のようなスタンプを購入しなければならず、制度は細かく整備されている。こうした大人でも煩わしいルールの上に、専門用語や銃器の扱いが重なるが、英語で学ぶ良い機会だと思い、当時十五歳だった息子と一緒にライセンスを取得した。

 ハンティング仲間のブラッドにも息子がいて、その後、彼は自然への愛着が高じて国立公園局のレンジャーになった。うちの息子とは歳も近いはずだが、妙に大人びて見えた。聞けば、銃を扱うようになって急に成長したという。それならば、フィッシングにとどまらず、ハンティングにも本格的に取り組もうと、親子で足繁く通った。まるでゴルフの打ちっぱなしのようなハンティングレンジでクレー射撃を繰り返し、近場の雉撃ちに出かけた。ガイドはハウンドドッグ(猟犬)を従え、ライ麦畑の中央に立ち、左右に三名ずつ扇状に広がって前進し、少しずつ雉を追い込んでいく。雉が猟犬に見つかると、慌てて飛び立つ瞬間を狙って撃つ。撃って良いのは、前方両手を広げた左右120度、上下は15度以上の高さ60度程度までと厳格に決められている。散弾銃は双発で、撃ち損じれば残りは一発だけだ。 人間本来の生存本能が刺激されるのか、 空腹になるほど獲物を狙う感覚は鋭くなり、一発で仕留めたときの達成感は格別だった。獲った雉は足環の番号を記録し、その場で解体する。肉は持ち帰り、骨は猟犬の餌となる。持ち帰った肉はキャンプサイトで焼いたり、干したりしながら、少しずつ食べる。明日も同じように獲物が得られるとは限らない。だからこそ、その日に全てを食べ尽くすことはしない。

 生きるための手段を、自分で選び取る。自然の中で獲物を追いながら、少しだけ自由に近づけたような気がした。その感覚は、不便をも楽しむどこか懐かしい昭和の景色に似ていて、現代社会から全てを断つのではなく、余計なものを手放すことで見えてくる。オフグリッドとは、結局、そういう引き算の結果なのかもしれない。

 とはいえ、いま野山を駆け回って獲物を追うわけにもいかない。けれど、僕の冷蔵庫にも、ひとつ良い食材が眠っている。地元の漁師から先週もらった鮪が、冷蔵庫の中でほどよく水分が抜けてきた。さっそく、ハワイ産の芋で造った地元焼酎を片手に、オーブンで軽く温燻にして、ゆっくり戴こう。これは料理じゃない、猟理だ。

古材で「あぜ道」をつくる

2019年の台風15号で被災した横須賀市海辺つり公園のウッドデッキ。同規模の台風が来襲しても耐えられる構造に改修したが、市の意向で約2/3の面積がウッドデッキ風のコンクリート舗装となったため、再利用しなかったデッキ材を買い受けた。その一部を沖縄へ持ってきていて、今回はこの古材を利用し、全長21mの畑のあぜ道をつくることにした。

1992年から海辺つり公園で使用されてきたブラジル産のイペ材は、33年が経過しても強度は保たれている。表面の1mm程度は紫外線で劣化しているものの、切断した木口は黒光りし、密度は高いままだ。90年代はかなり上質なイペ材が輸入されていて、ここで保管している4mを超えるデッキ材は今では入手不可能なほど。

21mの延長は、3m材×7本という部材長から決め、幅員はデッキ材の幅86mm+2mm目地×6列=528mmとして計画した。材長方向にデッキを貼るのは「通り」をしっかり出さないと曲がって見えて格好が悪い。一方、基礎は自社の螺杭(鋼製杭)を使用したので、多少の誤差が生じるため、この誤差を調整し、通りをきっちり出さなくてはならない。杭の打設後に測量をすると、最大25mm、平均5mm程度の誤差があった。これを根太の穴加工位置を変えることで調整した。

この螺杭の径はφ48.6mmと単管パイプの規格に合わせてあり、市販品のさまざまなアタッチメントが使用できる。今回は自社で開発したRTZ-12という杭の端部にフランジとボルトを固定する製品を使用した。これは特許登録済で、今年の6月にサンコーテクノさんより販売が開始される製品だ。

フランジ上に穴加工した根太(イペ材)を乗せ、ナットを締め込めば根太が固定される。機構はナットを締め込むと、コの字金物が締め上げられ、フランジ上の製品が固定されるというもの。製品はM12用とM16用があり、ボルト径により、コの字金物の穴加工位置を変えてあり、六角頭が壁にあたり、供廻りしないようになっている。先端にアイナットなどを取り付けても面白い。

全長21mに対し、杭は1.5mピッチ。杭上の根太が法線に直角になるよう調整したら、あとはデッキ材を法線に沿って固定していくだけだ。古材は微妙に長さが異なるので、木口を切断し、ジョイントしていく。上の写真で切断した木口が見えるが、表層は傷んでいても、断面は美しいままだ。

この古材を使った木道を「あぜ道デッキ」と呼ぼう。畑は「ジャーガル」と呼ばれる粘土質の土壌なので、雨が降ると、すぐにぬかるみ、靴底が泥だらけになってしまう。この対策としてあぜ道デッキを計画したのだが、ちょっとデザイン的に工夫をしてみることにした。モチーフにしたのは、ヨットなどを係留する浮き桟橋だ。21mの本体をメイン桟橋、これに直工するサブ桟橋を接続し、畑の区画を示すことにした。メイン桟橋は一輪車に土を満載して走行できるよう木道の強度に設定し、サブ桟橋は作業中に腰かけて休憩できるようベンチの強度に設定した。
木道を支える基礎は、幅員の中心に1本のみ。これを1.5mおきに配してある。木道の下には地盤からは5~15cmほどの空間があり、草払い機の歯が杭基礎の近くまで届くように工夫してある。

沖縄へ移住したい人は多いが、那覇や北谷といった都市ではなく、田舎へ移住したい人は「畑をしたい」「果樹を育てたい」という希望を持っている人が多い。だが、先祖崇拝の文化が色濃く残る田舎(特に南部)は、土地に対する思いも強く、移住者が簡単に土地を買ったり、借りたりすることができない。私たちは運よく、目の前の畑をお借りすることができたが、それも移住後3年経ってからだ。3年という歳月はけっこう長く、畑をしたいという情熱もさめてしまう。なので、このあぜ道デッキは1区画を小さくすることによって、移住者でも気軽に畑仕事が体験できるようにしたいと考えている。また、区画割りをすることで、畑エリア、花壇エリア、アートエリアなど、植生や用途に応じて面のデザインへ展開することも可能となる。桟橋に係留する船のように、多様なオーナーたちが思い思いの利用をしてくれれば、自然を愛する新たなコミュニティが生まれるかもしれない。そして、オーストラリアやニュージーランドで見られるオープンガーデンのような展開ができれば、来訪者へ ここで取り組んでいる様々なオフグリッドの要素を周知できるのではないだろうか。

それにしても古材はいいものだ。あたかも昔からそこにあったような佇まいだ。
故郷、横須賀で廃棄されたデッキ材が、ここ沖縄で再生された。こういう物語が裏のストーリーにあると、より価値観が高まるように感じている。

vol. 26「海馬の扉をひらく香り」

きな粉をまぶして焼いた豚肉は、香ばしい風味でラム酒とよく合う

  先日訪れたタツノオトシゴの人工養殖施設で、何百万匹の孵化から数百匹しか育たず、しかも成魚はわずか数か月でその一生を終えることを知った。絶滅の危機に瀕しながらも、全米の水族館に届けられるその小さな存在のはかなさに、静かな感慨を覚えた。脳の記憶を司る「海馬」は、その姿がタツノオトシゴに似ていることから名付けられたという。記憶もまた、ふとした拍子に姿を現し、すぐに消えてしまう―どこか似ている。鼻先をかすめる微かな薫りは、大脳皮質を通らず海馬を直接揺さぶり、眠っていた時間を巻き戻す小さなタイムマシンとなる。仏文学者プルーストが紅茶に浸したマドレーヌから幼少期を想起したように、記憶の鍵は、意外にも日常の匂いに隠れている。

 たとえば僕の場合、ショッポの煙りは愛煙家だった父を、洗濯洗剤「ニュービーズ」の匂いは母を思い出させる。梅雨の湿気は旧い洋館だった実家を蘇らせ、焼きたてのフランスパンの香りは一瞬で幼少期へ連れ戻す。小学生のころ、フィギュアスケートの早朝練習の帰り、窯から出てくるパチパチと音のするフランスパンを買って帰っていた。家へ辿り着くまで待ちきれず、自転車で走りながら千切って食べる素朴なパンの味は、今でもあの街の風景とともに鮮明だ。その店のフランスから来た職人の下で修業した日本人職人たちは各地に散り、いまも新しい町でパンを焼いている。いつも引っ越すたびにあの味を探し、あちこちのパン屋を巡る。お蔭でこれまで住んだ町のパン屋には詳しい。

 ここオアフ島でも例外ではない。もともと小麦の採れない土地ゆえ、小麦粉の仕入れルートや原産地、職人のルーツによってパンの味は千差万別だ。一押しは島の反対側でベトナム系華僑の一日一度しか焼かないフランスパンだが、すぐに近所の人で売り切れてしまい、うまくタイミングが合わないと出会えない。わざわざ北海道産小麦を使った日本の食パンがあるかと思えば、凡そ似て非なるショクパンをつくるフィリピン系ハワイアンの店もある。最近のお気に入りはイタリア系移民が窯で焼く素朴なチャバッタで、薄くスライスしたモルタデッラハムを挟んでオリーブオイルを垂らして戴く。さらに店先で頬張るならピザの原型、フォカッチャも捨てがたい。職人たちのお国柄が香りとなり、ハワイに居ながらにして、これまで住んだ街に思いを馳せる。

 かつてハワイではネイティブが米を栽培していたという。箸を巧みに操りポケボウルをかきこむ姿は、まるで漁師町の漬け丼そのものだし、ムスビ(おむすび)は三角ではなく四面体で、海苔の上に塩気の強いスパムが鎮座する。農作業の合間に塩むすびを頬張った日本人移民の知恵だろう。未だ大手のチェーン店は上陸していないが、“松坂”の名を冠した牛丼屋があり、これが意外に侮れない。もっともコメはカリフォルニア産ジャポニカ米なので、艶やかで甘みを帯びた日本の短粒種だったら…と夢想していたら、最近できた米屋では玄米を日本から運び、好みの白米に精米してくれるのだから驚きだ。かくしてハワイでは米食文化が根付いている。

 イネ科の穀物といえば小麦、米、トウモロコシ、そしてサトウキビ。マメ科なら大豆、落花生、ソラマメと続く。ハワイで採れた大豆は枝豆、豆腐、醤油や味噌に加工され、さらに焙煎され「きな粉」として流通する。さて今宵は、ロコに教わった“豚肉のきな粉焼き”を試そう。相棒は近所で栽培されたサトウキビから造られ地元産ラム酒。この独特の香りが、またひとつ新たな記憶として刻まれていく。薫りと匂いが運ぶ記憶は、過去と現在、そしてこの島の“イマココ”を静かに結び直してくれる。地産地消の暮らしとは、そんな時間の循環も抱きしめる営みなのかもしれない。

vol. 25 「違いの分かる男」

サイホンで淹れた一杯を、カリフォルニアの土で焼いた茶碗で戴く至高のひととき。

 ダバダぁ~♪と言えば、あのテレビCMを思い出す諸兄も多いだろう。かつて喫茶店で飲むものだった珈琲が、スプーン一杯とお湯だけで出来るなんて、誰が想像しただろうか。大阪万博のあった昭和45年から一連のコマーシャルで爆発的にヒットし、「ネスカフェ」の名はインスタントコーヒーの代名詞になった。その歴史はさらに古く、開発のきっかけは百年前に遡る。当時のブラジルでコーヒー豆が大豊作となり価格が暴落、農民たちが困窮した。政府が余った豆をどうにか活用できないかとネスレ社に頼み、試行錯誤の末、現在とほぼ同じインスタントコーヒーが1937年に誕生した。以来、世界中の家庭に広まってきた。

 ところが此処ハワイでは同じ時期、価格暴落によって栽培が軌道に乗っていたコーヒー農園が放棄されてしまう。その見放された原木を守ったのは移民として入植した日本人だった。こちらは遡ること200年前、ハワイ王国だった頃、カメハメハ二世夫妻に随行していたオアフ島のボキ首長が、帰国途中にリオ・デ・ジャネイロから苗木を持ち帰ったのが最初だという。始めは観賞用として育てられていたが、1828年、牧師がハワイ島のキャプテン・クック地区で本格的に栽培を始めたのがコナ・コーヒーなのだ。今も日本人の名を冠した農園が多く、収穫場を「Kuriba(繰り場)」、乾燥棚を「Hoshi-dana(干し棚)」と呼ぶのも、その頃の名残りだという。

 コーヒーの起源は9世紀のエチオピア、山羊飼いのカルディの逸話に遡る。飼っていた山羊たちが赤い実を食べてやたらと飛び跳ねているのを見て、試しに自分もかじってみた。すると、なんだかハイな気分になったという。彼はこの実を修道院へ持ち込んだが、僧侶たちは「これは怪しい」と火にくべてしまった。ところが、そこから立ち上る香ばしい香りに惹かれ、焼けた豆を集めて煮出してみると芳醇な味わいの飲み物になった。驚いて夜の儀式中の修道僧たちにも飲ませてみると、居眠りもせずに勤行に励むことができた。今ではKALDIの名を冠したコーヒーショップやカフェが 世界中にあり、エチオピア原産のアラビカ種は生産の8割近くを占める。

 そもそも僕とコーヒーの出会いは50年前、幼い頃に決まって連れて行かれた喫茶「エビアン」だ。店の奥でポコポコと沸き立つサイホン、その中でゆっくりと琥珀色に変わる液体が分厚いカップに注がれ、父がうまそうに飲んでいた。店内は煙草とコーヒーが入り混じった香りが漂い、カウンター越しに、いくつものサイホンを操るマスターがいた。壁には古びたカレンダーの画を額に入れただけの素朴な装飾、ヘリンボーンの木の床、小さなテーブルと椅子が並んでいた。休憩時間にちょっと一杯、そんな大人の時間に憧れていたのかもしれない。高校生になった頃、駅前の「にしむら珈琲店」の自家焙煎した豆を挽いてもらい、自宅で喫茶店の味を再現した。ネルドリップにお湯を注ぐと、ふわりと香るその匂いに、なんとなく大人になったような気がした。地元を離れる際、仲間が贈ってくれたのは、サイホンだった。ずいぶん長く、それを愛用していたのが懐かしい。

 それが25年ほど前、ヨーロッパに住むようになってから、好みが一変した。僕はエスプレッソに目覚めた。黒光りした油分の染み出た豆を高圧蒸気で一気に抽出するその一杯は濃厚で、どこまでも深い風味を持つ。食後に欠かせない一杯となりデミタスカップを傾けるのが日常になった。ホルダーにぎっしりと詰めた深煎りの粉に高圧蒸気を通さないと、あの黄金色のクレマは現れない。直火のマキネッタで淹れるモカとは一線を画す味わいだ。そんな本格的なエスプレッソも、「ネスプレッソ」の登場で身近に楽しめるようになり、今ではキッチンの片隅にマシンが鎮座している。こちらもネスレ社の努力に脱帽だ。

 珈琲の起源は千年前、ハワイへ二百年前に伝わりインスタントコーヒーは百年前に生まれた。そして僕は半世紀前からサイホンで嗜み、エスプレッソに目覚めて四半世紀が経つ。今日は、ビッグアイランドの農園焙煎してきた豆をグラインダーで挽いて、サイホンで淹れた一杯を、娘が焼いた茶碗で戴こう。今、この目の前の一杯に、なんだかとてつもなく長い時間をかけて辿りついたような気がするのダバダぁ~。 

輸入材こそ、使いきる!

現在、徳島市の中心部にある新町橋東公園の階段デッキを改修しています。1996年に徳島市東船場商店街振興組合さんが建設し、その後、徳島市公園緑地課へ移譲された施設です。この公園を起点に川沿いのボードウォークが300m続き、終点となる両国橋西公園まで改修が計画されています。このモノクロームのように見える写真は、改修前のもので、デッキ材は黒ずみ、下地の木材も腐朽が進行していました。それでも劣化診断調査をしてみると、デッキ材はカビや腐朽菌が繁殖していましたが、かなり健全な状態であることが判りました。さすがブラジル産イペ材です。
そこで、傷んでいる下地材を更新し、デッキ材を再利用する提案を行い、現在に至ります。

これは今週現場へ行って撮影した写真です。再利用し、表面をプレーナーで削り、現場へ戻したイペ材は本来の美しい木材の色を取り戻しています。階段の下3段にご注目をいただきますと、デッキ材を支える根太材が黄色いことに気づかれると思います。下3段は川の水位上昇により汽水に浸かるため、腐朽対策として、弊社のマリンランバー(ガラス繊維強化プラスチック発泡体)を採用いただきました。4段目以上は水に浸かる頻度は少ないので、特殊なメッキ処理をした鋼材の根太を使用し、コストダウンを図っています。
いやいや、今日はその話ではありませんでした。

この試算表は林野庁の監修したもので、建築物を新設する時に、木材の種類や比重、仕様数量を入力すると「これだけの量のCo2を閉じ込めることができている」ことを試算するものです。今回は逆の意味でこの試算表を作成してみました。木はその組成の70%近くを炭素で構成しています。目が詰まった広葉樹ほど大きな構成比となります。この現場で使用されているイペ材は気乾比重が1.03と、1を超える木材で、そう、水に沈むのです。
改修を計画する際、デッキ材を再利用しない場合は、77㎥もの外国産の木材を国内で焼却処分することになります。これにより発生するCO2量は126tにもなるということです。
1996年には、まだここまで環境意識は進んでいなかったので、積極的に外材が輸入されていました。外国の二酸化炭素を吸収し、育った木材を、日本へ輸入し、燃やす。カーボンニュートラルの観点からすると、かなり愚かなことをしてきたと言えるでしょう。

一昨日、徳島出張中に、大阪万博の「リング」が世界最大の木製構造物としてギネス認定されてというニュースを見ました。しかし、リングに使用されている木材はフィンランド製の集成材なのです。万博でリングを見て、素晴らしいと感じるか、愚かと感じるかは人によると思いますが、僕はどちらでもなく、現地へ足を運ぶことさえしないでしょう。そんな折、アメリカでは外国との貿易において関税をかける(上げる)大統領令が発令、4月2日から実施される見通しです。ここまで国際化した社会で自国ファーストはいかがなものかと思いましたが、成熟しきって膿が出始めた社会に、国内需給の重要性を再認識させる良い機会になるかもしれません。万博のリングを手掛けた人たち、万博終了後に、この大量の構造用木材(国内需要の2/3)をどう活用するんですか?もちろん妙案があるのでしょうね。

vol. 24 「鷹、高、TAKA」

” hee-haw ! “と叫びながら、洪水を楽しむ隣人たち

 それは突然のオフグリッド生活だった。豪雨による洪水、停電、さらには浸水、断水、ガスの遮断と、次々とライフラインが途絶えた。これが三日間続いた。いつもの停電なら数時間で復旧するだろうと高を括っていたが、丸一日経った頃から冷蔵庫の食材がダメになるのではと不安になった。翌日には水は引いたものの、ポンプが動かないことには断水が続き、ガス会社が開栓するまで安全弁は遮断されたままだった。WiFiも携帯も繋がらず、停電復旧の目処すらわからない。焦ったところで何も変わらない。とりあえず職場から発電機を借り、冷蔵庫を稼働させ、フロアランプに接続して明かりを確保、携帯も充電した。カセットコンロで湯を沸かし、カップ麺で急場を凌いだ。そんな中、隣人は冠水した道路でカヌーを漕ぎ、四駆車でウェークボードを楽しんでいる。解凍してしまった肉の塊は、どうせ捨てるくらいならと炭を熾してバーベキューとなり、近所の人々がガレージの軒下に集まって即席のパーティーが始まった。先の見えない不安よりも、今の非日常を楽しむ姿には感服する。復旧にはもう一日かかったが、デジタルデトックスの良い経験になった。

 そんな混乱の中、心に浮かんだのはカリフォルニアでの最近の家族の集まりだった。デジタル時代とはいえ、直接顔を合わせられる時間は何物にも代えがたい。家族は僕の好物をよく知っている。ニューヨークスタイルのLOX、クリームチーズを塗ったベーグルにスモークサーモン、スライスした玉ねぎとケーパーをのせたあの味だ。今回は息子がホストになり、検索した評判の良いベーグル屋へ行くことになった。ナビの言う通りにモールの駐車場に着いたが、それらしい店が見当たらない。半信半疑で看板のない店のドアを開けると、そこが目的地のベーグル屋だった。店内に入ると、目まぐるしく動くスタッフたちの手際の良さに目を奪われた。ビジネスは常にスピードと効率が求められる。アルゴリズムから仕入れを予想し、客は入店と同時にメニューをQRコードで読み、オーダーは厨房へまっしぐら、席へ付き暫くすると携帯へメッセージが届き、カウンターで受け取ると決済完了、デジタルがなければ、この店の存在すら知らなかっただろう。LOXを一口頬張る。その味は、良い素材を使い丁寧に作られたことがすぐにわかる。これは間違いなく“当たり”だ。まるで高い空から狙いを定める鷹のように、デジタルは冷静かつ正確だ。カリフォルニアでは、効率よく仕事を進める考え方が主流で、物事を素早く動かすことで利益を増やす仕組みが浸透している。スマホ片手に注文し、待つ間も画面を見つめる人々。便利さの象徴だが、その光景にはどこか味気なさを感じた 。

 ハワイに戻り、人気のパン屋で焼き上がりの香りにつられて行列に並んだ。聞き耳を立てていると、自分の番までに売切れてしまわないよう知らない人どうしが探りを入れている。それに常連客はレジ係に一言二言、その日の出来事を話しているから列が一向に進まない。僕の直前で欲しかったエピは売り切れ、代わりにバゲットを買った。アナログは非効率極まりない。しかし、それを苛立つこともなく日常と捉え、対面で感じる人の温かさや心の余裕が必要なのか。

 難読苗字の「小鳥遊」を思い出す。鷹がいないと小鳥たちは自由に遊ぶことができるから「たかなし」と読む。ハワイには鷹が居ない。まさに小鳥にとっての楽園、水道メーターの下でじっとしているニワトリが居たと思えば、気がつけばヒヨコがよちよちと歩き始め、ガレージの隅ではキジバトが巣作りしている。オフグリッドの混乱を経て、考える。本当の豊かさとは何だろう?

 謎かけをひとつ。デジタルの精密さとかけて鷹の鋭さと解く。その心は、「狙いを定め、無駄なく仕留める」。でも、鷹がいなければ、小鳥たちは自由に遊べる。転じてデジタルは無駄を削ぎ落とし、アナログは遠回りを楽しむとも言えよう。どちらも大事。たまには「たかなし(高なし≒成果がない)」でも、肩の力を抜くのもいいのかも。

 そうか、ここは “たかなし”な 暮らし なんだ。筆者であるTAKAが思うのだから間違いない。

木から学ぶ「適材適所」

西表島へ出張。サキシマスオウノキを見学するための遊歩道の改修設計だ。サキシマスオウノキ( 先島蘇芳木、学名: Heritiera littoralis) は、アオイ科サキシマスオウノキ属の常緑高木。「サキシマ」は先島諸島(宮古列島と八重山列島の総称) を指し、「スオウ」は、染料として利用されるスオウ(蘇芳木、マメ科の落葉小高木)に由来する。別名、サキシマスオウ、サキシマスオウギ、ハマグルミ、スオウギともよばれる。中国名は銀葉樹。
日本では特によく板根を発達させる木として有名で、沖縄古来の小舟サバニの舵板は、この板根を使っていたとも言われる。

空路で石垣空港へ、そして車で石垣港へ移動し、連絡船で西表島へ、さらにチャーター船に乗り換え仲間川を遡ると、ようやく目当てのサキシマスオウノキと対面できる。見ての通り、高く成長した板根を従えた高木は、神々しささえ感じる存在感だ。この神々しい木が群生しているエリアがあり、国の天然記念物に指定されている。写真の手前に写るのが、今回の改修対象の遊歩道だが、当時、かけた金額の割に、早く朽ちてしまったそうだ。調査をするとマングローブ林の軟弱地盤に設置するため、特殊な工法で基礎が造られているのだが、メーカーは汽水域の設計を知らないようだ。肝心な足元の金物は錆び、朽ち果てていた。そして歩道を構成する木材も未乾燥の大断面材を使用しているため、見事にシロアリの餌食となっていた。この状態まで腐朽が進行すると、補修の域を超え、作り直しが必要と判断せざるを得ない。

僕が本格的に木材や、橋に携わるようになったのは、オーストラリアにハードウッドを買い付けに行ったことがきっかけだった。ハードウッドでつくられた鉄道橋や人道橋を見学し、彼ら(OZ)からたくさんのことを学んだ。外観は一様に白銀化した鉄道橋だが、支柱、桁、床板、手すりなど、その用途に応じて異なる特性を持った樹種が選択されていた。例えば圧縮に強い(つぶされない)、曲げに強い(しなりがある)、摩擦に強い(すり減りにくい)、けば立たない(棘がでにくい)など、それぞれの用途に適合した樹種を組み合わせて1つの、大きな橋ができあがるのだ。日本でも杉、ヒノキといった針葉樹を中心としながらも、ナラやケヤキなどの広葉樹を取り入れた立派な歴史的建造物がたくさんあったのだが、当時は意識することなく、オーストラリアで出会った木橋に心を奪われ、この道に進むことになった。そんな経緯もあり、日本国内で様々な木橋やボードウォークの改修を手掛けるようになり、今回の仕事もそんな流れから依頼されたものだ。

国内には様々なメーカーがあるが、本来長持ちさせるべき公共構造物を、自社の都合や、無知により、結果、産廃物を増やすような設計を散見する。それはまるでサキシマスオウノキに見下される人間の愚かな行為のようにも映る。好きな四字熟語に「適材適所」というのがある。辞書には「その人の能力・性質によくあてはまる地位や任務を与えること」と人に適用する場合が多いようだが、この熟語は、木材の利用から生まれた日本人の知恵のような気がしてならないのだ。

vol. 23 「焼肉じゃない、バーベキューだ!」

牛の肩ロースとサーロインの間にあるのがリブアイ。骨ごと切り出すと インディアンの大きな戦斧、トマホークに似ている。

 大海の孤島で「もう一生会えないかも知れない」と老婆に言われたら、そそくさと辞するわけにはいかず翌朝のフライトまで滞在することになった。ポルトガルの首都リスボンから南西へ1000km、大西洋上の火山島マデイラ島を訪れた20年も前の話だ。その日は、フンシャルから車で半日ほどかけて島の反対側まで向かい、長年の取引先を訪れた時のことだった。留守番をしていた年老いた母親を相手に話が弾み、危うく帰りのフライトに間に合わない。ここは見切りを付けて去ろうとするが、せめて息子が戻るまで待ってくれとせがまれた。時を過ごす中、連絡が取れた息子が戻るには数時間かかると言うので仕方なく延泊の手配を取った。それを悪く思ってか、今夜はウチで食事をしていってくれと懐っこい。再訪を約束して、ひとまず宿へ引き揚げた。数時間後に戻ってみると、自宅にはたくさんの人が集まっている。何事かと聞いたら、折角、来てくれたのだから、皆を呼んだという。僕のことを買い被ってか偉い人が来てくれたと信じて疑わない。そこで振舞われたのが豚の丸焼きとマデイラワインだった。ほんの数時間の間に、息子が近所の人を集め、豚を絞めて準備をしてくれ、総出で歓待してくれた。ローストチキンなら未だしも、豚を一頭丸焼きにする豪快さに度肝を貫かれ、夜更けまで飲み明かしたことを思い出す。

 ハワイ語で土地の境界をアフ プアア(Ahupuaʻa)という。石を積み上げた石垣= アフ(ahu)に 豚 = プアア(puaʻa)が置かれたことから、そういう名になった。首長が豚を税として徴収する際、土地の境界に置かせたことに由来するらしい。そもそも豚は神へのお供え物として扱われ、祝宴や宗教儀式に食す特別な食べ物だった。今では蒸し焼きにされた豚肉料理、カルア プアア(Kālua puaʻa)は人気の郷土料理のひとつになっている。似たような話は、沖縄にもある。琉球王国に招かれた冊封使節団(中国からの客人)は豚肉で持て成された。その使節団は数百人の規模で数か月滞在されたとされ、食糧を賄うため養豚が盛んになったことが今日の沖縄の豚食文化にも繋がるらしい。ハワイでは沖縄からの移民家系はOkinawanと呼ばれ結束が強い。戦後間もない頃、疲弊した沖縄を救うため「生きた豚」を送った人たちが居た。戦災復興させるには食糧支援も大切だが、生きた豚は養豚業の復興に繋がり、糞尿は肥料として畑に撒かれ主食である芋を育てることが食糧難の解消と産業振興に役立った。Okinawanの人たちは資金を募り、米陸軍の輸送船で五百頭余りの生きた豚が海を渡った。循環型産業は5年ほどで10万頭の畜産へ化けたという。

 フランス語で「あごひげから尾っぽまで」を意味するde la Barbe à la Queueは、スペイン語ではBarbacoa、英語ではBarbequeとなり、今日のB-B-Q(バーベキュー)へと繋がる。もともと髭と尾のある動物は鳴き声以外全てを食す意味から丸焼きしたのが由来といえば分かりやすい。慶事があると豚の丸焼きを食す文化圏は世界に広がる。ポルトガルのレイタォン(Leitão)をはじめフィリピンのレチョン(Lechon)、ベトナムのヘォ クァイ(Heo quay)、かつてのハワイ王国も琉球王国もそうだった。

 出会って四十年来の友人が来島した。私が訪日した際は精肉店が営む地元で一番の焼肉屋で饗応を受けた。鉄板や焼網で薄く切った肉を焼きながら食べる「東洋」の「焼肉」だ。今宵はご当地らしく炭を熾して、骨ごと切り出した トマホーク(Tomahawk)を豪快にBBQで戴くことにしよう。ちなみに焼きながら食べるのが焼肉、焼いてから食べるのがバーベキューなんだそうな。