vol. 34 「行き止まりは終点ではない」

舟を動かしているのは閘門を開け閉めする人の手と、静かな水の流れである。

 今年、アメリカは建国250年を迎えた。マストに掲げられた星条旗とともにハワイ州旗のユニオンジャックが目に入る。 オーストラリアやニュージーランドの国旗にも似ているが、英国の植民地だったわけでも、英連邦に属したわけでもない。カメハメハ大王の時代から、英国への敬意、主要八島を表す横縞が使われてきたのが面白い。そして英国旗もまた、イングランド、アイルランド、スコットランドのユニオン(連合)であり、その歴史に思いを馳せる。

 20年ほど前の駐英当時、最も心を惹かれたのは、産業革命の遺産だった。世界初の鉄橋をはじめ、蒸気機関車は保存鉄道として今も煙を上げ、古い炭鉱跡では当時のトロッコが見物客を運ぶ。さらに赤煉瓦の工場や倉庫も、用途を変えながら使われ続けていた。本来の役目を終えた後も、単なる遺構として眠っているわけではない。当時を伝える「生きた化石」として、人々の暮らしの中に息づいている。そのひとつに石炭や鉄鉱石、原材料や製品を運ぶため、イギリス全土に張り巡らされた運河網がある。運河沿いには細い道がどこまでも続く。かつて馬が岸から舟を曳いていたトウパス(曳舟道)の名残である。水路には、高低差に応じて舟を上げ下げする閘門が連なり、石造りの橋が水面を跨いでいる。

 その運河を進むナロウボートで旅をした。ナロウボートとは、その名のとおり「細い舟」で、幅は約2メートル、長さは15メートルほど。水深の浅い水路を進み、低い橋をくぐるため、喫水や高さにも制約がある。そして閘門に収まる範囲に限られるため、平底で細長い独特の鉄舟になった。もともと、できるだけ多くの荷物を安定して運ぶ舟だった。 動力は馬から蒸気機関、そしてディーゼルエンジンへと変わった。今では舟を借りて自分たちで旅をすることができる。舟によっては薪ストーブがあり、屋根には太陽光パネルが並ぶ。小さな台所と寝台を備え、長く暮らす人もいる。速度は、歩くより少し速く、自転車より遅い。エンジンが付いたからといって、速くなったわけではない。家族が交代で舵を握り、閘門では舟を舫い、水門を開け、また舟へ戻る。 閘門に入ったら、その先の水門を開け、水位が変わるのを待つ。舫いを解いて、先へ進む。舟が閘門を出ると誰かが水門を閉める。その誰かは曳舟道を伝って舟へ戻る。狭い橋や水路では対向する舟を待ち、時には護岸へ寄せて水路を譲る。やることは次々にある。それでも不思議と慌ただしさはない。誰かに運んでもらう旅ではない。自分たちの手で少しずつ前へ進んでいるという実感が、一日をゆっくり流していた。

 何もかも自動化された現代から見れば、効率の悪いことばかりである。日暮れとともに、その日にたどり着いた場所で舟を舫い、そこで朝を迎える。目を覚ますと、水面から薄い霧が立ち上がっている。曳舟道の向こうでは、牧草地の牛がこちらを向いている。聞こえるのは、水門からこぼれ落ちる水音と、水鳥の羽ばたきだけだった。しばらくすると、遠くから電車の走る音が聞こえてきた。近代の象徴である鉄道が先を急いで走っていく。その一方で、僕たちの舟は250年も前に造られた水路をゆっくりと進む。だが、その運河は鉄道によって分断されているわけではない。水路橋やトンネルを通り、線路さえ越えて、その先へと続いている。そしてナロウボートは、引き返すことを前提にしない。一度船首を向けたら、よほどのことがない限り、その先へ進み続ける。水位が違えば閘門を上り下りし、谷では水路橋を渡り、山ではトンネルを抜ける。どうしても越えられなければ、舟そのものを水槽ごと持ち上げて先の水路へ繋ぐ。運河には、「ここまで」という考え方がない。水路を断ち切るのではなく、どうすればその先へ繋げられるかを考えて造られている。

 だからこそ、イギリスの人々は運河を、ただ「古いもの」として片づけなかった。物流という当初の役割を終えた後も、人が旅をし、暮らし、歩き、自然に触れる空間として使い続けている。考えてみれば、それは保存ではなく再生である。新しいものを造ることだけが、未来をつくることではない。役目を終えたものに新しい意味を見いだし、次の時代へ手渡していく。それもまた、未来をつくる営みなのだと思う。こうした産業遺産も、見方を変えれば立派なオフグリッドではないか。

  少しだけ時間を巻き戻し、その時代の速度に身を委ねてみる。一日に進む距離は、わずか20キロほどだった。バーミンガム郊外の運河で、時計を見るのさえ忘れる一週間だった。この速度だから見える景色がある。この手間だから感じられる時間がある。 急がない旅には、急いでは辿り着けない自分たちがいた。

vol. 33 「東に雨、西に風」

長く延びる影。乾いた芝の向こうに、いつもの朝が始まる。

 僕が子供のころ、ギラギラと暑くなる前の夏休みの早朝、眠い目をこすって近所の小学校のラジオ体操に通った。毎日、スタンプがたまるのが嬉しくて皆勤賞を目指した。うっかり寝坊してスタンプが途絶えると、次の日から途端に行く気を失った。達成感を得るための努力はできるが、できないとわかるとやる気も失せるというものだ。皆勤賞の景品を目標にするのは吝かではないが、毎朝体を動かすこと自体が目的になっていたなら、もっと続けられたのかもしれない。

 そして今、近所では毎週土曜の朝5時、スピーカーから爆音とともにホイッスルが鳴り響く。シンセの電子音とカラダに響く重低音、音楽が盛り上がったところで3分ほどでフェードアウト。一瞬の静寂に体温の上昇を感じる。そしてまたホイッスルが鳴ると巨大なタイヤをひっくり返す。ひとりでは無理で、何人かでの共同作業。ふたりで駄目なら3人、4人で2度、3度、ひっくり返すと再び静寂が訪れる。すでに息が上がり、水分補給は必至だ。セッションと呼ばれる2~3分のメニューを自分のやりたい時間だけ繰り返す。猛者は10回ほどのセッションを行う。皆が大汗をかいて6時には終了。その時間内なら好きな時間に来て、好きな時間に帰って良い。スタンプなくとも、参加者がカラダを動かすこと自体を楽しんでいる。

  日本では 全員で同じ時間に同じ体操をし、 同じことを均等に分け合う「平等」が重んじられるが、アメリカでは一人ひとりの事情に応じた「公平」が求められる。たとえば、 職場でピザを注文する際、何人分かとは聞かれるが、何等分かとは聞かれない。6人分と答えると、なんとも中心を通らない不平等なカットでピザが届く。小さいピースと大きいピースでは倍ほどの量の違いがあったりする。6人の腹具合が同じなことはない。お腹のすいている人は大きなピースを食べればよい。これがアメリカの公平なのだ。だから、エクササイズだって個人によってメニューは違っていい。

  このところの貿易風で島の東側では雨が降り、他方、西側では乾燥が続いている。枯草が強風で擦れ合って自然発火し、野焼きになることもある。住宅へ延焼する恐れがある時だけ消防が消火にあたり、それ以外は自然の営みに委ねられる。島暮らしにとって水は貴重だ。一方で、晴天率の高い西側では太陽光パネルが効率よく発電している。島全体として見れば、東は水を蓄え、西は太陽の恵みを受ける。それぞれが異なる役割を担いながら、一つの島を支えている。もし自然が平等を求めるなら、東にも西にも同じ量の雨が降らなければならない。しかし現実はそうではない。雨は東に降り、西には陽が射す。均等ではないが、不公平とも言い切れない。

 考えてみれば、人間社会も同じかもしれない。子どものころのラジオ体操は、皆が同じ時間に集まり、同じ体操をすることで一体感を生み出していた。誰もが同じ動きをするから分かりやすく、参加しやすい。そこには平等の良さがある。土曜の朝のワークアウトでは、小学生もいればムキムキの退役軍人もいる。体力も年齢も経験も違う。全員が同じことをしたら、誰かには簡単すぎ、誰かには過酷すぎる。だから、それぞれが自分に合った負荷を選び、自分なりの汗を流す。そこには公平の考え方がある。

 また今日も遠くでホイッスルが鳴る。東に雨を降らせ、西に風を吹かせながら、この島は静かに循環している。 そして僕は、水道の向こうに雨を見て、コンセントの向こうに太陽を見る。 オフグリッド考の面白さは、こうして普段見えないものが見えてくることかもしれない。

vol. 32 「還るということ — 海の向こうで」

1957年ごろに撮影された モーガン4/4

 一枚の写真がある。個人で乗用車を所有すること自体がまだ珍しかった時代、写真館を営む叔父の車に乗り込む若い女性が写っている。背景には須磨離宮の跡地近くに建つ移情閣、神戸の貿易商、呉 錦堂が築いた別荘だ。黒松の影と海の光、その前に停まる英国車。どこか時代の転換点を静かに示している。本来、写真は写真館で撮るものだった時代に、屋外でこれほど構図を意識した一枚が残されていることが、すでにひとつの意思だと思う。叔父は「時代の中にある個人」を切り取ろうとしていたのか。戦後の焼け野原から、国際貿易によって復興へと向かう神戸。その空気の中で、女性が車に乗り、外の風景の中で写真に収まっている。それは、生きることに精一杯だった時代から、人生を楽しむことへと舵が切られ始めた瞬間の象徴のようにも見える。その若い女性が、義母だ。百年近くを生きた義母の前半生が、この一枚に凝縮されているように思う。

 その義母が、静かにこの世を去った。妻はハワイで暮らしながら、海を越えた距離の中で母の最期を迎えた。海の向こうの出来事は、いつも半拍遅れて届く。季節の移ろいさえも、どこか薄い膜を一枚挟んだように感じられる場所で、彼女は母の死と向き合った。神戸へ戻り母を送り終えたあと、彼女はしばらく実家に残り、姉とともに遺品の整理に向き合っている。相続のためには家を空けなければならない。すべて処分してもいいと割り切る兄と、思い出に手をつけられない姉。そのあいだに立ち、彼女は絶妙な距離を保ちながら、静かに手を動かし続けていた。そして、この写真を見つけた。大往生だったとはいえ、残された者にとってはやはり深い別れである。介護や看病、そして最期の時間まで、兄や姉と役割を分け合い、できることを少しずつ持ち寄っていた。そして彼女は 「きょうだいに戻れたような気がする」と 言う。母を送り、娘としての役割を終えたあとに訪れる、ひとつの静けさ。その言葉には、役割というものが外れたあとの、素の関係がふと立ち上がるように思えた。

  人は、気づかないうちに、いくつもの線に結ばれて生きている。家族という線、役割という線、そして距離の線。それらは常につながっているようでいて、ある日ふと外れる瞬間がある。そのとき、人はどこに立つのだろうか。ハワイでの暮らしは、どこか時間の流れがゆるやかだ。出来事は遅れて届き、感情もまた少し遅れてやってくる。その距離があるからこそ、彼女は家族とのあいだに絶妙な間合いを保つことができたのかもしれない。近すぎず、遠すぎず、関わりながらも執着しすぎない。その距離が、最後の時間を支えていたようにも見える。

 ふと、別の話が重なる。ハワイの自宅に、フリーマーケットで見つけた小鉢がある。絵付けはかすれ、大きさのわりにずっしりと重い。高台には「Made in Occupied Japan」と記されている。占領下の日本で作られた磁器である。戦後復興のなかで外貨を稼ぐ手段として、大量に輸出されたものだ。サンフランシスコ講和条約までのわずかな期間だけ、その表記が義務付けられていた。僕たちは奇襲攻撃を受けた真珠湾に面した、かつてのミリタリーハウスに暮らしながら、占領下の日本で作られた器で素麺をすすっている。時間も場所も異なるはずの出来事が、ひとつの生活の中で重なり合っている。その器が生まれた、戦後まもない時間にも思いが及ぶ。まだ何も満ちていなかった時代にも、確かに同じように人は暮らし、つながり、そして離れていったはずだ。

 戦後、日本は何もないところから立ち上がり、やがて洗濯機や冷蔵庫、テレビといった「三種の神器」が暮らしを変えていった。義母もまた、その変化のただ中を生きてきたひとりだったに違いない。時代はさらに進み、世界は瞬時につながるようになったが、その速さの奥にある人の営みは、どこか変わらないまま残されている。 今さら時代を巻き戻すことはできないが、せめて今夜ぐらいは電気を消してみようと思う。光を手放し、静けさの中で空を見上げる。きっと戦後の焼け野原で見上げた空も、同じように満天の星空だったはずだ。距離を越えて、時間を越えて、人の営みはどこかでつながっている。この静けさの中で、義母は土へと還っていった。すべてのつながりを手放した先にあるものを、オフグリッドと呼ぶのだとすれば、それはこんな終着点なのかもしれない。


ロボット芝刈り機「Honu」その後

「Honu」(ハワイ語でウミガメの意)と名付けたロボット芝刈り機。このサイトを見て下さっている方々の関心も高いようで、その操作性や耐久性についてご質問をいただくことが多い。結論から言えば、すこぶる優秀な機械だと思う。現在は約3,000㎡を1週間で刈っている。実働5日間で予備日2日といった感じだ。予備日というのは雨天への対応だ。防水なので機械を動かすことはできるのだが、刈った草が水分で刃や胴体に絡んでしまうので作業はできない。優秀なHonuは、雨が降り出すとレインセンサーが作動し、自動的に巣(充電ステーション)に帰ってくる。そして雨が止んだ30分後、再び(自動的に)作業に戻っていくのだ。また日によっては1,000㎡を超える作業を行う日もあるのだが、おおよそ1.5時間作業をすると1時間の休憩(充電)し、これを3回繰り返し、8時間みっちり働いてくれる。

炎天下でも健気に働いている姿は人の心をも動かすようで、近所の人々に「今日も元気に働いてたね」などと声がかかる。先日行われた村の総会では、区長が週一で公園の草刈りボランティアをするHonuについて触れ、感謝をしてくれていた。誰よりも感謝しているのは、他でもない、草刈りという仕事から解放された僕だ。ただ、優秀なHonuにも苦手な分野はあり、側溝やフェンスの際を刈ることができないのだ。約15cmのクリアランスが必要なのだ。なので1カ月に一度は、Honuと共同作業を行う。Honuが大面積の作業をしている間、僕は側溝やフェンスの際や植栽まわりを草刈り機で刈る。そんな時に感じることがある。これまでのような、ひとり作業ではなく、機械だと分かっていても一緒に作業をしてくれることに対する喜びだ。

そんなHonuには清潔でおいしい食事をしてほしい。そんな思いから150Wのソーラーパネル2枚で発電したクリーンエネルギーをポタ電 (512Wh )に貯める。Honuは休憩しながらこのきれいな電力を食べている。発電量と消費量のバランスは良いようで、前述した通り、日に3回の充電を繰り返し作業を継続することができている。しかし、梅雨のように雨が続き、数日作業ができないと、自動的に機械がロックされ、これを手動で解除しないと天気が回復しても、あらかじめスケジュールした作業に入ることができないというのが改善が必要なところだ。 現時点では100%オフグリッド化することはできていないが、人の生活を大きく助けてくれる実力は十分に持っている。ロボットとしての成果はもちろんのこと、協働という喜びさえ与えてくれる。今後のAIの発展に伴い、人々の生活に様々な分野のロボットが出現してくるだろう。分野別の専門ロボが先行しているが、複数の分野を担当できるヒューマノイドが活躍する日も遠くないのかな。

vol. 31 「珊瑚色のドアの向こうに」

塗り替えられた物置の扉は珊瑚色。ドラえもんの秘密道具を彷彿させる。

 我が家は築百年ほどのミリタリーハウスである。大日本帝国海軍が真珠湾に奇襲攻撃したあの日、この家は士官ハウスだったらしい。歴史というものは、ときに建物に沈殿する。断熱はゼロ、木造平屋、敷地内の電柱はいまだにコールタールの塗られた木製だ。キッチンのストーブこそ新しくなったが、全体は無骨な軍仕様のままで、それは合理的で、飾り気がない。それでいて壊れない。なぜなら、定期的にNAVFAC(米海軍施設管理司令)がやってくるからだ。ソユーズが半世紀を超えて飛び続けるのと同じ理屈で、この家も旧態依然とした施設で百年経っても健在だ。古いが整備されている。人間もそうありたい 。

  最近、十年ぶりの外装補修で、物置の扉がコーラルピンクに塗られた。最初は違和感があった。何より軍用住宅にピンクは似合わない。しかし新しい仕様書で決まっているという。通達は、ときに個人の美意識を軽々と越える。軍の世界では、美とは主観ではなく規格である。感性より整合性、好みより統一性、そういう世界のはずだ。だが、ふと気づく。丘の上のトリプラー陸軍病院も、ワイキキのロイヤルハワイアンホテルも、同じ色を纏っている。ひとつは兵士を治療する場所、ひとつは旅人を癒す場所。戦争の記憶の上に、柔らかな色が塗られている。この色は珊瑚の色であり、夕陽が海を染める色だ。濃い緑の捕色として視界を和らげ、呼吸を深くさせる。規格として選ばれた色が、結果として癒しの色でもあったとすれば、それは合理主義の中に潜む配慮である。規律の果てに、人間への優しさがあるとは、なるほど 。

 そして「どこでもドア」を思う。扉を開ければ、その先が目的地になるという、あのひみつ道具。僕は長いあいだ、現実のどこでもドアを使ってきた。地球何十周ものフライトで百数十か国へ飛び、搭乗口をいくつもくぐった。辞令は紙切れではなく、ひとつの扉だった。開ければ次の人生が待っている。不安はあったが、ワクワクが少し勝っていた。だが、どの扉の向こうも予想外だった。成長を期待すれば危機が訪れ、順風を思えば逆風が吹く。それでも悪くなかった。扉を開けた瞬間のあの小さな昂ぶりを、いまも覚えているからだ。一方で、開けなかった扉もある。理屈をつけて手を離したノブ。人生は開けた扉の軌跡であり、開けなかった扉の影でもある。

  若い頃、僕は遠くへ通じる扉ばかりを探していた。いまは違う。いまは遠くへ飛ぶ時間より、この百年の家に戻る時間のほうが長い。庭はNAVFACが手配したガーデナーが整えてくれる。僕はそれを眺め、必要な手入れを少しだけ手伝う。物置の扉の向こうにあるのは、庭を整えるための道具と、週末に火を熾すBBQコンロだ。宇宙にもヨーロッパにも繋がってはいない。ただの日常である。だが、その日常こそが救済なのかもしれない。戦場から病院へ移るように、緊張から安堵へ移るための扉。この色は、どこへでも行く自由の色であると同時に、「ここでいい」と言ってくれる色なのか 。

 そして今日も僕はこの扉を開ける。ほんの少しだけ、胸が高鳴るのはあの感覚かもしれない。百年の家は、どこか世間から半歩ずれたコミュニティに佇んでいる。巨大なネットワークやマーケットの波から少し距離を置いた、ささやかなオフグリッドの感覚。常に接続されていなくてもいい。すぐに世界と繋がらなくてもいい。近くのビーチを散歩し、夕陽の色を眺める。それだけで十分だと思える瞬間がある。どこへでも行ける人生よりも、ここへ戻れる人生のほうが、少しだけ豊かだ。世界を巡っても、最後に戻るのはここなのか。珊瑚色の扉は今日もそこにあり、僕をどこかへ連れていくわけではない。だが、扉の前に佇む自分は、少しだけ深い。

RELAY / SONG OF THE FORESTS

Relay〜杜の詩[Official Music Video]
サザンオールスターズ
作詞:桑田佳祐/作曲:桑田佳祐/編曲:サザンオールスターズ&片山敦夫

誰かが悲嘆(なげ)いてた
美しい杜が消滅(き)えるのを
Ah…
自分が居ない世の中
思い遣るような人間(ひと)であれと
地球が病んで
未来を憂う時代に
身近な場所で何が起こってるんだ?
ここに集って音楽(おと)を紡いだスタジオ(場所)
歌がある

C’mon baby now
Oh その理由(わけ)を Answer
Oh この私に
Oh 明日を夢見る
馬鹿でごめんよ
答えておくれよ
(中略)
意志を継ないで
この杜(ここ)が好きだよ

1978年に「勝手にシンドバッド」でデビューしたサザンオールスターズ。
リーダーの桑田佳祐の地元である茅ヶ崎から遠くない横須賀西部で生まれ育った僕にとって、サザンの歌詞に出てくる地名や風景は地元そのものだ。90年代までは、湘南の海の波や風、砂浜を題材にした楽曲が多かったが、年とともにいつしか反戦や平和への願いを謳ったものや、最近では環境をテーマにした楽曲までと幅広い。
冒頭に紹介した「Relay〜杜の詩 」は、桑田佳祐が明治神宮外苑で進む再開発を憂える気持ちから作詞したものとされるが、僕には「自分が居ない世の中 思い遣るような人間(ひと)であれと」というメッセージが心に響いた。

これまで病気や大怪我には無縁で生きてきたのだが、昨年秋の人間ドッグで膀胱に腫瘍が見つかり、すぐに入院、手術をしてことなきを得たが、何せ初めての経験だったので、病院のベッドでは様々なことを考えた。術後3か月後の検査で問題がなかったことで気が抜けたのか、今度は船の整備中に岸壁から転落し、左腕の骨を折った。人生初のギブスだ。物心がついたころから波に乗り、学生時代にはバイクを乗り回し、危険極まりない趣味を続け、たくさんの怪我をしてきたが、不思議と大怪我には至らなかった。会社経営も同様で、サラリーマン時代、グループ会社との合併で、好きなこと(志すこと)ができなくなることを恐れ、経営のイロハも分からないまま創業し、分不相応な大きな仕事もこなしてきたが、幸いにも大きな失敗をすることなく事業継承までたどり着いた。
もしかしたら、僕は自分が想像する以上に「慎重」に生きてきたのかもしれない。

「自分が居ない世の中」を想像し、事業継承を企画、計画、実施した。
「自分が居ない世の中」を想像し、 入院先のベッドの上でこれからの暮らし方、生き方を考えた。
子供や孫世代に何を残せるのだろうか。
僕らが年老いて、力をなくし、果てた先には、一体、どんな地球環境が待ち受け、世界の価値観、日本という国はどうなっているのだろう。
個人的には、つけを残すような生き方はしてきていないつもりだが、環境問題に限って言えば、地球温暖化に加担したと自覚する技術、製品の開発に携わってきたことや、過剰な安全性や快適性を求めた結果、日々の購買活動自体が想像を絶する量の廃棄物を生んでいたりと、無意識に環境を悪化させる活動をしているように感じる。
平和を願ったり、環境問題を重視した国際的な約束をしても、人間は過去に学んだであろうはずの過ちを繰り返す。なぜだろう。
せめて僕は、「自分が居ない世の中 思い遣るような人間(ひと)であれと」 というセンテンスを胸に刻みながら、目の前の選択をしていきたい。

関連リンク
Real Sound https://realsound.jp/2023/09/post-1440541.html#goog_rewarded

vol. 30 「なるべくして、そうなったんだ」

夜明け前、今日も空を見上げる。ビーチパラソルの向こうにダイアモンドヘッドを仰ぐ。

 YUKIは、自身が立ち上げた会社からオフグリッドできずにいる。僕は大学卒業後、新卒で入社したメーカーからオフグリッドした。ただ、いずれも仕事一途な人生から少し距離を取り、沖縄やハワイで暮らしている点に大差ない。彼は勤めていた会社からスピンアウトして今の事業を始め、僕は勤めていた会社の成長と自身の成長を、結果的に同じ時間軸で歩いただけだ。それぞれの生き方には芯があるようにも見えるが、実際は自分たちの気に入らないことをしなかっただけかもしれない。もっと別の道もあったのだろうが、今さら検証しても意味はない。変わらない自分たちが、そこにいる。

 僕は彼より一足先に還暦を迎え、級友たちと会う機会が一気に増えた。昔から連絡を絶やさない人間というのはいて、これだけ転々としていても声がかかるのはありがたい。僕は小学・中学の一貫校だった。六歳から十五歳までを共に過ごした仲間がいる。その後の人生で、家族以外と九年以上を共有することはほとんどない。思い出話は尽きないが、記憶を照らし合わせると食い違いも多い。当事者であっても、記憶は都合よく書き換えられる。いまさらそのズレを訂正しようとする者はいない。

 最近、ミシシッピ州の小さな街に暮らす一般女性、テリーシャ・ジョーンズが、楽曲制作を始めて三か月でビルボードのヒットチャート一位を獲得したという話を知った。その曲をR&Bとして歌い上げる黒人女性シンガー、ザナイア・モネも話題になっている。調べてみると、彼女は実在せず、テリーシャが人工知能で作り出したアバターだった。それがカリフォルニアのレーベルと約五億円で契約したという。テリーシャはインタビューで、幼いころから音楽が好きだったと語っている。もはやその言葉が事実か物語かは重要ではない。価値はすでに、生身の人生だけを必要としなくなった。

 そういえば小学校の発表会で独唱していたOはオペラ歌手になり、吹奏楽部にいたMはプロのオーボエ奏者になった。謝恩会を仕切っていたWは大手証券会社で経営コンサルをしている。六甲山のキャンプリーダーだったTは大手重工業の執行役員となり、鷲を追っていたUはテレビ局のカメラマンだ。気象予報が得意だった僕は、今日もハワイの空を見上げている。幼いころに形づくられた何かは、形を変えながらも確かに今につながっている。時代が変わり、価値の置き場が揺らいでも、人は結局、居心地の良い場所を求めている。

 人生におけるオフグリッドとは、どこかへ逃げることでも、何かを捨てることでもない。ただ、自分が気に入らない生き方に、最後まで居座らなかったというだけの話だ。それが芯のある生き方に見えるのだとしたら、たぶん、僕にはそうするしかなかっただけなのだ。

オフグリッドできないものもある

年に数回、子会社の取締役会等で東京圏へ行く。東京圏と表現したのは、生まれ故郷の横須賀や学生時代を過ごした静岡を含めてのこと。実家はすでに取り壊され、生まれ育った懐かしの地に行くこともなくなったが、頭や身体は、育った環境を記憶している。海がそばにあったので、泳いだり、潜ったり、散歩をしたり。いつしか、そこはヨットの聖地で、近所にあったセイル屋さんや船具屋さんが、のちに業界では有名な存在だったことに気づくのだ。
現在所有する1.5隻(0.5隻は共同所有の意)のヨットには、地元のセイル屋さんのセイルを使っている。そう。理屈ではなく。

羽田空港に到着し、都内を移動し、オフィスへつく頃には、すでに沖縄へ帰りたくなっている。そして毎回「よく、こんなところに長いこと住んでいたもんだ」と感じ、毒づくのだ。会議を終え、翌日には早々に駿河湾へ移動し、セーリングを愉しむ。会議とセーリングがセットの旅だ。セーリングをしながら、会議の内容を反芻し、持ち帰るもの、捨て去るものを分別する。

以前にも書いたが、僕のオフグリッドの原点は 自然エネルギーで帆走る 「ヨット」だ。装備は無駄がなく、壊れにくいように機構は極めてシンプルだ。刻々と変化する気象海象を見て、予測し、目的地までのコース、セイルプランを考える。同乗しているメンバーのスキル、数も重要な要素だ。そんなことを考えながら、ひとつひとつ結論を出し、目的地まで進んでいく。これは経営や事業と同じで、考え方のベースがここにあるのだ。

海に浮かぶ初秋の富士山を眺めながら振りかえった。
昨年の子会社の取締役会で、今期限りで役員(会長)を退任すると宣言し、了承された。
今回の取締役会の直前に、現社長からもう1期、役員を継続してほしいと相談があり、熟考の上に了解した。創業した責任は果たしたつもりではいるが、大きな一歩を踏み出す計画をサポートしてほしいと請われたら、簡単に「知らない」と捨て去ることはできない。

小さな頃からあたりまえにあったもの。
未来を考え、大切に育んできたもの。
オフグリッドしたくてもできないものもある。

vol. 29「海に出る前の八割」

在りし日のフォールズ・オブ・クライド号。今は沖合25マイルの深海に眠る。

 アメリカという国が生まれたのは、長い植民地時代を経た1776年のことだった。イギリスからの独立を宣言し、理想を掲げた若い国は、やがて憲法を定め、ジョージ・ワシントンを初代大統領に選んだ。まだ国としての骨格も定まらぬ東海岸の十三州の人々は、大西洋の風を受けて、新しい時代へと漕ぎ出していった。

 そのわずか二十年後、国家の威信をかけて一隻の軍艦が建造される。「憲法」を意味するコンスティテューション号。三本のマストに五十を超える砲門を備えた木造帆船は、海軍の象徴として1797年に進水した。米英戦争や南北戦争など幾多の戦火をくぐり抜け、独立を守り抜いた誇りを帆に受け、退役後もなお、ボストン港に浮かび続けている。二世紀を越えて今も航海できるこの艦は、もはや船というより、「国そのもの」と言っていい。造り、守り、手をかけ続けた人々の情念が、船体の木目やマストの一本一本にまで染み込んでいるように思える。

 さらに百年後、太平洋の向こうでは別の物語が始まっていた。メキシコとの戦いを経てカリフォルニアが合衆国に加わり、ゴールドラッシュが西の地を熱くした。その時代の1879年に誕生したのが、イギリス商船フォールズ・オブ・クライド号である。四本マストの鉄製帆船はインドとの交易に活躍し、のちに太平洋航路に渡って、商船としてハワイと米本土を往復した。西へ向かっては雑貨や小麦を、東へ向かっては砂糖と人々の夢を乗せながら、海の道を結ぶ静かな労働者だった。

 やがて1959年、ハワイは共和国を経てアメリカ五十番目の州となる。そして海を渡り続けたその老いた帆船は役目を終え一度は沈められる運命にあったが、人々の手によって大切に救い出され、ホノルル港で博物館船として静かに余生を送ることになった。けれど2024年、老朽化のため国家歴史登録財から抹消され、そしてついに今年の夏、沖合25マイルの深海へと静かに還っていった。船齢146年の航跡を閉じたその姿は、まるで時代そのものが潮の満ち引きとともに去っていくようでもあった。

 船というものは、ほかのどんな乗り物よりも、メンテナンスに生かされる。時代に合わせて姿を変え、修理を重ねながら、人の手と心によって命をつないでいく。僕が学生時代に外洋ヨットレースに夢中だった頃、オーナーがよく口にしていた言葉がある。「船は八割がメンテナンス、もう一割が回航、残り一割がレースだ」と。見えるのは、いつだってその最後の一割だけだ。けれど、見えない八割こそが、結果を支える礎になっている。仕事も人生も、きっと同じなのだろう。光の当たる瞬間の裏側には、静かな努力や準備、そして時に孤独な決意がある。

 船齢二百年を超えてなお、今もボストン港に舫われる船と、ホノルルの海に還った船を思うとき、目に見えない八割の時間が、確かにそこに息づいているのを感じる。そして、人々もまた、手をかけ、手をかけられながら、ゆっくりとそれぞれの航路を刻んでいくものなんだと気づく。

太陽光×ロボット草刈機

酷暑の続く沖縄。東京から移住し、はや5年が経過したが、最も大変な作業は草刈りだ。スコールは植物たちには大きな恵みであり、昨日刈った箇所の雑草が、今日は3cmも伸びていることがある。この5年間、沖縄の雑草たちと戦いながら、過ごしてきたようなものだ。
これまでの武器は、YAMAHAのエンジンで動く自走式草刈り機と、マキタの草払い機と剪定鋏と鎌。これらを季節や場所、雑草の種別により使い分け悪戦苦闘し、ひとつのノウハウを得た。それは、こまめに刈り込んでいると、高く成長する雑草は減少し、背の低い野芝のような比較的管理のしやすい雑草が増殖するようになることだ。5年の歳月をかけ、多種多様な雑草が生息していた里道は、管理のしやすい低層の草たちの天国となった。それでも雨の多い月は2週間に一度は刈り込まないと歩きにくくなる。

この「こまめな刈り込み」をロボット草刈機にやってもらおうと、ロボット草刈機を調べまくったが、今のスタンダードは、敷地(作業)境界に、ワイヤー(電線)を埋め込み、その範囲内をロボットがランダムに移動し、草刈り作業を行うものだ。この方式のものは、花壇など、ロボットに進入してほしくないエリアにもワイヤーを埋める必要があることから、借りた庭が広すぎることや、自由なレイアウト変更ができないことが不満で、導入に足踏みをしていた。ところが、アメリカのSUNSEEKERというメーカーがGPSを補足しながら作業ができるロボットを開発し、日本でも販売を開始したのだ。早速、日本の総代理店にコンタクトを取り、説明を受け、購入を決めた。本社が新潟県のホンダウォークという会社で、PLOWというブランドで屋外作業機械を展開している。購入を決めたのは、担当者がオフグリッドに関心があり、僕の計画するソーラー発電によるロボットへの電源供給に理解を示してくれたことが大きい。

SUNSEEKERはマシン本体はもちろんのこと、GPSを受信する基地局への給電が必要だ。これをソーラー発電によるクリーンエネルギーで賄いたい。
スペックを見ると、マシンのバッテリーは10Ah、下表には記載はないが20Vの給電だ。なので、ソーラーパネルから充電したバッテリーから直に充電することができない。そこで、たまたま在庫にあったポタ電(エコフロー リバー2MAX)を経由し、充電することにした。ポタ電は小さいながらも512Wh (20Ah 25.6V )の容量を持っていて、うまいことソーラー発電を組み合わせることで、バッテリー満充電1回分の作業をさせることができそうだ。

そして基地局への給電は、以前に設置した井戸の揚水ポンプを稼働させるソーラーシステムから行うことにした。井戸水の水質検査をしたところ、大腸菌が多く、飲み水としては使用できないので、海あがりのシャワーや庭への散水程度しか使用していないので、基地局への給電は全く問題はない。

ソーラーパネルはNydell(ヨット)から折り畳み式の160Wのパネルを拝借してきて試験を行っている。この日は晴天で、160Wパネルをデッキ上に真上を向け設置し、発電テストを行った。5年前のパネルなので、160Wパネルだが、100W(62.5%)を発電し、エコフローに給電している。そしてマシンには194Wで充電している。

ここのところ、数日間試験をしたが、100Wを発電するのはまれなので、本運用ではパネルの発電量を増やす必要がある。今のところ、150Wパネルを2枚新設する予定だ。この場合、300W×50%だとしても150W、マシンへの供給量をそのまま発電するとしたら、65%(195W)の発電が行えれば、数字的には発電した電力をそのまま供給できる計算となる。一方、電力を消費する作業エリアの設定も肝心だ。数日間試験をしたところ、マシンは満充電で2時間ほど稼働することが分かった。この2時間で250㎡程度の面積をこなしてくれる。なので、1日の作業料をこの程度に設定することで、この小さなポタ電でも太陽光だけでロボット草刈機を動かすことができるのだ。商用電源につなげば、作業と充電を繰り返し、日に何度も稼働することができるのだが、マシンにも休息は必要だ。

しかし、このマシンが酷暑の中、正確に作業をしてくれる姿を見ると健気さを感じる。その後ろ姿はまるで砂浜を歩くウミガメに似ていて、愛嬌さえ感じる。このエッセイを書く相方のTAKAがハワイ在住ということもあり、マシンに「Honu」と命名した。ハワイ語でウミガメを意味するが、健気に働いてくれる「ホヌ」を眺めているだけでほのぼのする。沖縄の商用電源のほとんどは火力発電によるものだ。石炭を輸入し、それを燃焼させることで電力を生み出しているのだが、かわいいHonuにはそんな汚い食事を与えるわけにはいかない。太陽の光が作り出した新鮮でクリーンな食事をして元気に働き続けてほしい。これもオフグリッドの大きな魅力のひとつだ。
まだ試験運用を始めたばかりだが、酷暑の労働から解放され空いた時間は大きい。ヒマな時間が増えると人間はろくなことを考えないが、空いた時間にやりたいことはたくさんある。
5年という歳月で学んだことを、これからの5年に活かしたい。
まずは、僕と同様に5年間働きづめだった機械たちのメンテをしよう。人間も機械もメンテが大切だ。