vol. 34 「行き止まりは終点ではない」

舟を動かしているのは閘門を開け閉めする人の手と、静かな水の流れである。

 今年、アメリカは建国250年を迎えた。マストに掲げられた星条旗とともにハワイ州旗のユニオンジャックが目に入る。 オーストラリアやニュージーランドの国旗にも似ているが、英国の植民地だったわけでも、英連邦に属したわけでもない。カメハメハ大王の時代から、英国への敬意、主要八島を表す横縞が使われてきたのが面白い。そして英国旗もまた、イングランド、アイルランド、スコットランドのユニオン(連合)であり、その歴史に思いを馳せる。

 20年ほど前の駐英当時、最も心を惹かれたのは、産業革命の遺産だった。世界初の鉄橋をはじめ、蒸気機関車は保存鉄道として今も煙を上げ、古い炭鉱跡では当時のトロッコが見物客を運ぶ。さらに赤煉瓦の工場や倉庫も、用途を変えながら使われ続けていた。本来の役目を終えた後も、単なる遺構として眠っているわけではない。当時を伝える「生きた化石」として、人々の暮らしの中に息づいている。そのひとつに石炭や鉄鉱石、原材料や製品を運ぶため、イギリス全土に張り巡らされた運河網がある。運河沿いには細い道がどこまでも続く。かつて馬が岸から舟を曳いていたトウパス(曳舟道)の名残である。水路には、高低差に応じて舟を上げ下げする閘門が連なり、石造りの橋が水面を跨いでいる。

 その運河を進むナロウボートで旅をした。ナロウボートとは、その名のとおり「細い舟」で、幅は約2メートル、長さは15メートルほど。水深の浅い水路を進み、低い橋をくぐるため、喫水や高さにも制約がある。そして閘門に収まる範囲に限られるため、平底で細長い独特の鉄舟になった。もともと、できるだけ多くの荷物を安定して運ぶ舟だった。 動力は馬から蒸気機関、そしてディーゼルエンジンへと変わった。今では舟を借りて自分たちで旅をすることができる。舟によっては薪ストーブがあり、屋根には太陽光パネルが並ぶ。小さな台所と寝台を備え、長く暮らす人もいる。速度は、歩くより少し速く、自転車より遅い。エンジンが付いたからといって、速くなったわけではない。家族が交代で舵を握り、閘門では舟を舫い、水門を開け、また舟へ戻る。 閘門に入ったら、その先の水門を開け、水位が変わるのを待つ。舫いを解いて、先へ進む。舟が閘門を出ると誰かが水門を閉める。その誰かは曳舟道を伝って舟へ戻る。狭い橋や水路では対向する舟を待ち、時には護岸へ寄せて水路を譲る。やることは次々にある。それでも不思議と慌ただしさはない。誰かに運んでもらう旅ではない。自分たちの手で少しずつ前へ進んでいるという実感が、一日をゆっくり流していた。

 何もかも自動化された現代から見れば、効率の悪いことばかりである。日暮れとともに、その日にたどり着いた場所で舟を舫い、そこで朝を迎える。目を覚ますと、水面から薄い霧が立ち上がっている。曳舟道の向こうでは、牧草地の牛がこちらを向いている。聞こえるのは、水門からこぼれ落ちる水音と、水鳥の羽ばたきだけだった。しばらくすると、遠くから電車の走る音が聞こえてきた。近代の象徴である鉄道が先を急いで走っていく。その一方で、僕たちの舟は250年も前に造られた水路をゆっくりと進む。だが、その運河は鉄道によって分断されているわけではない。水路橋やトンネルを通り、線路さえ越えて、その先へと続いている。そしてナロウボートは、引き返すことを前提にしない。一度船首を向けたら、よほどのことがない限り、その先へ進み続ける。水位が違えば閘門を上り下りし、谷では水路橋を渡り、山ではトンネルを抜ける。どうしても越えられなければ、舟そのものを水槽ごと持ち上げて先の水路へ繋ぐ。運河には、「ここまで」という考え方がない。水路を断ち切るのではなく、どうすればその先へ繋げられるかを考えて造られている。

 だからこそ、イギリスの人々は運河を、ただ「古いもの」として片づけなかった。物流という当初の役割を終えた後も、人が旅をし、暮らし、歩き、自然に触れる空間として使い続けている。考えてみれば、それは保存ではなく再生である。新しいものを造ることだけが、未来をつくることではない。役目を終えたものに新しい意味を見いだし、次の時代へ手渡していく。それもまた、未来をつくる営みなのだと思う。こうした産業遺産も、見方を変えれば立派なオフグリッドではないか。

  少しだけ時間を巻き戻し、その時代の速度に身を委ねてみる。一日に進む距離は、わずか20キロほどだった。バーミンガム郊外の運河で、時計を見るのさえ忘れる一週間だった。この速度だから見える景色がある。この手間だから感じられる時間がある。 急がない旅には、急いでは辿り着けない自分たちがいた。

vol. 33 「東に雨、西に風」

長く延びる影。乾いた芝の向こうに、いつもの朝が始まる。

 僕が子供のころ、ギラギラと暑くなる前の夏休みの早朝、眠い目をこすって近所の小学校のラジオ体操に通った。毎日、スタンプがたまるのが嬉しくて皆勤賞を目指した。うっかり寝坊してスタンプが途絶えると、次の日から途端に行く気を失った。達成感を得るための努力はできるが、できないとわかるとやる気も失せるというものだ。皆勤賞の景品を目標にするのは吝かではないが、毎朝体を動かすこと自体が目的になっていたなら、もっと続けられたのかもしれない。

 そして今、近所では毎週土曜の朝5時、スピーカーから爆音とともにホイッスルが鳴り響く。シンセの電子音とカラダに響く重低音、音楽が盛り上がったところで3分ほどでフェードアウト。一瞬の静寂に体温の上昇を感じる。そしてまたホイッスルが鳴ると巨大なタイヤをひっくり返す。ひとりでは無理で、何人かでの共同作業。ふたりで駄目なら3人、4人で2度、3度、ひっくり返すと再び静寂が訪れる。すでに息が上がり、水分補給は必至だ。セッションと呼ばれる2~3分のメニューを自分のやりたい時間だけ繰り返す。猛者は10回ほどのセッションを行う。皆が大汗をかいて6時には終了。その時間内なら好きな時間に来て、好きな時間に帰って良い。スタンプなくとも、参加者がカラダを動かすこと自体を楽しんでいる。

  日本では 全員で同じ時間に同じ体操をし、 同じことを均等に分け合う「平等」が重んじられるが、アメリカでは一人ひとりの事情に応じた「公平」が求められる。たとえば、 職場でピザを注文する際、何人分かとは聞かれるが、何等分かとは聞かれない。6人分と答えると、なんとも中心を通らない不平等なカットでピザが届く。小さいピースと大きいピースでは倍ほどの量の違いがあったりする。6人の腹具合が同じなことはない。お腹のすいている人は大きなピースを食べればよい。これがアメリカの公平なのだ。だから、エクササイズだって個人によってメニューは違っていい。

  このところの貿易風で島の東側では雨が降り、他方、西側では乾燥が続いている。枯草が強風で擦れ合って自然発火し、野焼きになることもある。住宅へ延焼する恐れがある時だけ消防が消火にあたり、それ以外は自然の営みに委ねられる。島暮らしにとって水は貴重だ。一方で、晴天率の高い西側では太陽光パネルが効率よく発電している。島全体として見れば、東は水を蓄え、西は太陽の恵みを受ける。それぞれが異なる役割を担いながら、一つの島を支えている。もし自然が平等を求めるなら、東にも西にも同じ量の雨が降らなければならない。しかし現実はそうではない。雨は東に降り、西には陽が射す。均等ではないが、不公平とも言い切れない。

 考えてみれば、人間社会も同じかもしれない。子どものころのラジオ体操は、皆が同じ時間に集まり、同じ体操をすることで一体感を生み出していた。誰もが同じ動きをするから分かりやすく、参加しやすい。そこには平等の良さがある。土曜の朝のワークアウトでは、小学生もいればムキムキの退役軍人もいる。体力も年齢も経験も違う。全員が同じことをしたら、誰かには簡単すぎ、誰かには過酷すぎる。だから、それぞれが自分に合った負荷を選び、自分なりの汗を流す。そこには公平の考え方がある。

 また今日も遠くでホイッスルが鳴る。東に雨を降らせ、西に風を吹かせながら、この島は静かに循環している。 そして僕は、水道の向こうに雨を見て、コンセントの向こうに太陽を見る。 オフグリッド考の面白さは、こうして普段見えないものが見えてくることかもしれない。

vol. 32 「還るということ — 海の向こうで」

1957年ごろに撮影された モーガン4/4

 一枚の写真がある。個人で乗用車を所有すること自体がまだ珍しかった時代、写真館を営む叔父の車に乗り込む若い女性が写っている。背景には須磨離宮の跡地近くに建つ移情閣、神戸の貿易商、呉 錦堂が築いた別荘だ。黒松の影と海の光、その前に停まる英国車。どこか時代の転換点を静かに示している。本来、写真は写真館で撮るものだった時代に、屋外でこれほど構図を意識した一枚が残されていることが、すでにひとつの意思だと思う。叔父は「時代の中にある個人」を切り取ろうとしていたのか。戦後の焼け野原から、国際貿易によって復興へと向かう神戸。その空気の中で、女性が車に乗り、外の風景の中で写真に収まっている。それは、生きることに精一杯だった時代から、人生を楽しむことへと舵が切られ始めた瞬間の象徴のようにも見える。その若い女性が、義母だ。百年近くを生きた義母の前半生が、この一枚に凝縮されているように思う。

 その義母が、静かにこの世を去った。妻はハワイで暮らしながら、海を越えた距離の中で母の最期を迎えた。海の向こうの出来事は、いつも半拍遅れて届く。季節の移ろいさえも、どこか薄い膜を一枚挟んだように感じられる場所で、彼女は母の死と向き合った。神戸へ戻り母を送り終えたあと、彼女はしばらく実家に残り、姉とともに遺品の整理に向き合っている。相続のためには家を空けなければならない。すべて処分してもいいと割り切る兄と、思い出に手をつけられない姉。そのあいだに立ち、彼女は絶妙な距離を保ちながら、静かに手を動かし続けていた。そして、この写真を見つけた。大往生だったとはいえ、残された者にとってはやはり深い別れである。介護や看病、そして最期の時間まで、兄や姉と役割を分け合い、できることを少しずつ持ち寄っていた。そして彼女は 「きょうだいに戻れたような気がする」と 言う。母を送り、娘としての役割を終えたあとに訪れる、ひとつの静けさ。その言葉には、役割というものが外れたあとの、素の関係がふと立ち上がるように思えた。

  人は、気づかないうちに、いくつもの線に結ばれて生きている。家族という線、役割という線、そして距離の線。それらは常につながっているようでいて、ある日ふと外れる瞬間がある。そのとき、人はどこに立つのだろうか。ハワイでの暮らしは、どこか時間の流れがゆるやかだ。出来事は遅れて届き、感情もまた少し遅れてやってくる。その距離があるからこそ、彼女は家族とのあいだに絶妙な間合いを保つことができたのかもしれない。近すぎず、遠すぎず、関わりながらも執着しすぎない。その距離が、最後の時間を支えていたようにも見える。

 ふと、別の話が重なる。ハワイの自宅に、フリーマーケットで見つけた小鉢がある。絵付けはかすれ、大きさのわりにずっしりと重い。高台には「Made in Occupied Japan」と記されている。占領下の日本で作られた磁器である。戦後復興のなかで外貨を稼ぐ手段として、大量に輸出されたものだ。サンフランシスコ講和条約までのわずかな期間だけ、その表記が義務付けられていた。僕たちは奇襲攻撃を受けた真珠湾に面した、かつてのミリタリーハウスに暮らしながら、占領下の日本で作られた器で素麺をすすっている。時間も場所も異なるはずの出来事が、ひとつの生活の中で重なり合っている。その器が生まれた、戦後まもない時間にも思いが及ぶ。まだ何も満ちていなかった時代にも、確かに同じように人は暮らし、つながり、そして離れていったはずだ。

 戦後、日本は何もないところから立ち上がり、やがて洗濯機や冷蔵庫、テレビといった「三種の神器」が暮らしを変えていった。義母もまた、その変化のただ中を生きてきたひとりだったに違いない。時代はさらに進み、世界は瞬時につながるようになったが、その速さの奥にある人の営みは、どこか変わらないまま残されている。 今さら時代を巻き戻すことはできないが、せめて今夜ぐらいは電気を消してみようと思う。光を手放し、静けさの中で空を見上げる。きっと戦後の焼け野原で見上げた空も、同じように満天の星空だったはずだ。距離を越えて、時間を越えて、人の営みはどこかでつながっている。この静けさの中で、義母は土へと還っていった。すべてのつながりを手放した先にあるものを、オフグリッドと呼ぶのだとすれば、それはこんな終着点なのかもしれない。


vol. 31 「珊瑚色のドアの向こうに」

塗り替えられた物置の扉は珊瑚色。ドラえもんの秘密道具を彷彿させる。

 我が家は築百年ほどのミリタリーハウスである。大日本帝国海軍が真珠湾に奇襲攻撃したあの日、この家は士官ハウスだったらしい。歴史というものは、ときに建物に沈殿する。断熱はゼロ、木造平屋、敷地内の電柱はいまだにコールタールの塗られた木製だ。キッチンのストーブこそ新しくなったが、全体は無骨な軍仕様のままで、それは合理的で、飾り気がない。それでいて壊れない。なぜなら、定期的にNAVFAC(米海軍施設管理司令)がやってくるからだ。ソユーズが半世紀を超えて飛び続けるのと同じ理屈で、この家も旧態依然とした施設で百年経っても健在だ。古いが整備されている。人間もそうありたい 。

  最近、十年ぶりの外装補修で、物置の扉がコーラルピンクに塗られた。最初は違和感があった。何より軍用住宅にピンクは似合わない。しかし新しい仕様書で決まっているという。通達は、ときに個人の美意識を軽々と越える。軍の世界では、美とは主観ではなく規格である。感性より整合性、好みより統一性、そういう世界のはずだ。だが、ふと気づく。丘の上のトリプラー陸軍病院も、ワイキキのロイヤルハワイアンホテルも、同じ色を纏っている。ひとつは兵士を治療する場所、ひとつは旅人を癒す場所。戦争の記憶の上に、柔らかな色が塗られている。この色は珊瑚の色であり、夕陽が海を染める色だ。濃い緑の捕色として視界を和らげ、呼吸を深くさせる。規格として選ばれた色が、結果として癒しの色でもあったとすれば、それは合理主義の中に潜む配慮である。規律の果てに、人間への優しさがあるとは、なるほど 。

 そして「どこでもドア」を思う。扉を開ければ、その先が目的地になるという、あのひみつ道具。僕は長いあいだ、現実のどこでもドアを使ってきた。地球何十周ものフライトで百数十か国へ飛び、搭乗口をいくつもくぐった。辞令は紙切れではなく、ひとつの扉だった。開ければ次の人生が待っている。不安はあったが、ワクワクが少し勝っていた。だが、どの扉の向こうも予想外だった。成長を期待すれば危機が訪れ、順風を思えば逆風が吹く。それでも悪くなかった。扉を開けた瞬間のあの小さな昂ぶりを、いまも覚えているからだ。一方で、開けなかった扉もある。理屈をつけて手を離したノブ。人生は開けた扉の軌跡であり、開けなかった扉の影でもある。

  若い頃、僕は遠くへ通じる扉ばかりを探していた。いまは違う。いまは遠くへ飛ぶ時間より、この百年の家に戻る時間のほうが長い。庭はNAVFACが手配したガーデナーが整えてくれる。僕はそれを眺め、必要な手入れを少しだけ手伝う。物置の扉の向こうにあるのは、庭を整えるための道具と、週末に火を熾すBBQコンロだ。宇宙にもヨーロッパにも繋がってはいない。ただの日常である。だが、その日常こそが救済なのかもしれない。戦場から病院へ移るように、緊張から安堵へ移るための扉。この色は、どこへでも行く自由の色であると同時に、「ここでいい」と言ってくれる色なのか 。

 そして今日も僕はこの扉を開ける。ほんの少しだけ、胸が高鳴るのはあの感覚かもしれない。百年の家は、どこか世間から半歩ずれたコミュニティに佇んでいる。巨大なネットワークやマーケットの波から少し距離を置いた、ささやかなオフグリッドの感覚。常に接続されていなくてもいい。すぐに世界と繋がらなくてもいい。近くのビーチを散歩し、夕陽の色を眺める。それだけで十分だと思える瞬間がある。どこへでも行ける人生よりも、ここへ戻れる人生のほうが、少しだけ豊かだ。世界を巡っても、最後に戻るのはここなのか。珊瑚色の扉は今日もそこにあり、僕をどこかへ連れていくわけではない。だが、扉の前に佇む自分は、少しだけ深い。

vol. 30 「なるべくして、そうなったんだ」

夜明け前、今日も空を見上げる。ビーチパラソルの向こうにダイアモンドヘッドを仰ぐ。

 YUKIは、自身が立ち上げた会社からオフグリッドできずにいる。僕は大学卒業後、新卒で入社したメーカーからオフグリッドした。ただ、いずれも仕事一途な人生から少し距離を取り、沖縄やハワイで暮らしている点に大差ない。彼は勤めていた会社からスピンアウトして今の事業を始め、僕は勤めていた会社の成長と自身の成長を、結果的に同じ時間軸で歩いただけだ。それぞれの生き方には芯があるようにも見えるが、実際は自分たちの気に入らないことをしなかっただけかもしれない。もっと別の道もあったのだろうが、今さら検証しても意味はない。変わらない自分たちが、そこにいる。

 僕は彼より一足先に還暦を迎え、級友たちと会う機会が一気に増えた。昔から連絡を絶やさない人間というのはいて、これだけ転々としていても声がかかるのはありがたい。僕は小学・中学の一貫校だった。六歳から十五歳までを共に過ごした仲間がいる。その後の人生で、家族以外と九年以上を共有することはほとんどない。思い出話は尽きないが、記憶を照らし合わせると食い違いも多い。当事者であっても、記憶は都合よく書き換えられる。いまさらそのズレを訂正しようとする者はいない。

 最近、ミシシッピ州の小さな街に暮らす一般女性、テリーシャ・ジョーンズが、楽曲制作を始めて三か月でビルボードのヒットチャート一位を獲得したという話を知った。その曲をR&Bとして歌い上げる黒人女性シンガー、ザナイア・モネも話題になっている。調べてみると、彼女は実在せず、テリーシャが人工知能で作り出したアバターだった。それがカリフォルニアのレーベルと約五億円で契約したという。テリーシャはインタビューで、幼いころから音楽が好きだったと語っている。もはやその言葉が事実か物語かは重要ではない。価値はすでに、生身の人生だけを必要としなくなった。

 そういえば小学校の発表会で独唱していたOはオペラ歌手になり、吹奏楽部にいたMはプロのオーボエ奏者になった。謝恩会を仕切っていたWは大手証券会社で経営コンサルをしている。六甲山のキャンプリーダーだったTは大手重工業の執行役員となり、鷲を追っていたUはテレビ局のカメラマンだ。気象予報が得意だった僕は、今日もハワイの空を見上げている。幼いころに形づくられた何かは、形を変えながらも確かに今につながっている。時代が変わり、価値の置き場が揺らいでも、人は結局、居心地の良い場所を求めている。

 人生におけるオフグリッドとは、どこかへ逃げることでも、何かを捨てることでもない。ただ、自分が気に入らない生き方に、最後まで居座らなかったというだけの話だ。それが芯のある生き方に見えるのだとしたら、たぶん、僕にはそうするしかなかっただけなのだ。

vol. 29「海に出る前の八割」

在りし日のフォールズ・オブ・クライド号。今は沖合25マイルの深海に眠る。

 アメリカという国が生まれたのは、長い植民地時代を経た1776年のことだった。イギリスからの独立を宣言し、理想を掲げた若い国は、やがて憲法を定め、ジョージ・ワシントンを初代大統領に選んだ。まだ国としての骨格も定まらぬ東海岸の十三州の人々は、大西洋の風を受けて、新しい時代へと漕ぎ出していった。

 そのわずか二十年後、国家の威信をかけて一隻の軍艦が建造される。「憲法」を意味するコンスティテューション号。三本のマストに五十を超える砲門を備えた木造帆船は、海軍の象徴として1797年に進水した。米英戦争や南北戦争など幾多の戦火をくぐり抜け、独立を守り抜いた誇りを帆に受け、退役後もなお、ボストン港に浮かび続けている。二世紀を越えて今も航海できるこの艦は、もはや船というより、「国そのもの」と言っていい。造り、守り、手をかけ続けた人々の情念が、船体の木目やマストの一本一本にまで染み込んでいるように思える。

 さらに百年後、太平洋の向こうでは別の物語が始まっていた。メキシコとの戦いを経てカリフォルニアが合衆国に加わり、ゴールドラッシュが西の地を熱くした。その時代の1879年に誕生したのが、イギリス商船フォールズ・オブ・クライド号である。四本マストの鉄製帆船はインドとの交易に活躍し、のちに太平洋航路に渡って、商船としてハワイと米本土を往復した。西へ向かっては雑貨や小麦を、東へ向かっては砂糖と人々の夢を乗せながら、海の道を結ぶ静かな労働者だった。

 やがて1959年、ハワイは共和国を経てアメリカ五十番目の州となる。そして海を渡り続けたその老いた帆船は役目を終え一度は沈められる運命にあったが、人々の手によって大切に救い出され、ホノルル港で博物館船として静かに余生を送ることになった。けれど2024年、老朽化のため国家歴史登録財から抹消され、そしてついに今年の夏、沖合25マイルの深海へと静かに還っていった。船齢146年の航跡を閉じたその姿は、まるで時代そのものが潮の満ち引きとともに去っていくようでもあった。

 船というものは、ほかのどんな乗り物よりも、メンテナンスに生かされる。時代に合わせて姿を変え、修理を重ねながら、人の手と心によって命をつないでいく。僕が学生時代に外洋ヨットレースに夢中だった頃、オーナーがよく口にしていた言葉がある。「船は八割がメンテナンス、もう一割が回航、残り一割がレースだ」と。見えるのは、いつだってその最後の一割だけだ。けれど、見えない八割こそが、結果を支える礎になっている。仕事も人生も、きっと同じなのだろう。光の当たる瞬間の裏側には、静かな努力や準備、そして時に孤独な決意がある。

 船齢二百年を超えてなお、今もボストン港に舫われる船と、ホノルルの海に還った船を思うとき、目に見えない八割の時間が、確かにそこに息づいているのを感じる。そして、人々もまた、手をかけ、手をかけられながら、ゆっくりとそれぞれの航路を刻んでいくものなんだと気づく。

vol. 28「灯台とコルトレーンと」

木の温もりに包まれた音の箱。雑音さえ、時を超える響きに変わってゆく。

 今回の旅でどうしても訪れたい場所があった。ボストン湾口に立つ北米最古の灯台である。1716年に建てられたその灯台は、日本で最初の観音崎灯台よりも150年も早い。独立戦争のさなかに一度は破壊されたが、1783年に再建され、今なお現役で光を放ち続けている。稼働中の灯台としては、メイン州のポートランドヘッドライトに次いで古いとされる。

 その灯台が立つリトルブリュースター島へは、国立公園局のレンジャーが操る船でしか近づけない。登頂はおろか上陸も許されないが、船から仰ぎ見ると、潮風に吹かれながら凛と立つ姿が目に焼きついた。航行が目視に頼っていた時代、灯台は命を預ける道標だった。維持には必ず人の手が必要で、そこに暮らした灯台守の家族の記録も残されている。いまやGPSやレーダーが航路を示す時代となり、灯台の役割は大きく減じた。それでも濃霧や冬の嵐のとき、10秒に一度灯る光は、なお多くの船を導いている。テクノロジーの進歩に押し流されながらも、役割を終え切らずに残る存在感。その姿が胸に沁みた。

 旅から戻ったある日、思いがけず手元にもうひとつの「旧いもの」がやってきた。メインランドに転勤する隣人が置いていったオーディオプレーヤーである。ラジオとレコードプレーヤーが一体となったミッドセンチュリー風の姿に惹かれて裏蓋を外すと、「Made in Japan」の文字があった。真空管ではなかったが、トランジスタ以前の電気回路が整然と並び、1960年前後の製品ではないかと想像がふくらむ。

 久しぶりに「はんだごて」を取り出し、緩んだ配線を結線し直すとラジオが息を吹き返した。針がないためレコードは再生できないが、スピーカーからは少し雑音交じりのハワイのラジオ局の音が流れた。その瞬間、かつて短波ラジオで耳にした米軍放送FENの記憶が蘇る。時間を超えて記憶を呼び覚ます道具の力に、しばし感慨を覚えた。ボストン湾の灯台、そして我が家の古いオーディオプレーヤー。目的を果たす方法は変わっても、いずれも「過去の遺物」と呼ぶには惜しい存在だ。むしろ「古きをたずねて新しきを知る」温故知新という言葉そのものだ。便利さだけを追い求めるあまり、僕たちがいつの間にか手放してしまった大切な何かを、彼らは静かに語りかけてくる。

 ラジオのダイヤルを回してジャズ局に合わせると、コルトレーンの甘いサックスがスピーカーから立ちのぼった。思わず手を止め、冷やしておいたラム酒をゆっくり口に含む。気づけば、部屋の灯りを点けることさえ忘れた夕暮れの薄暗い部屋で、音と酒に包まれるひとときが現れた。そんな贅沢な「オフグリッド」こそ、現代に生きる僕たちに必要な休息なのかもしれない。

vol. 27「ミートイーター、猟理の流儀」

キハダマグロの部位。半分は刺身で、半分は燻製で戴く

 アウトドア好きの青年が、父の影響で狩猟を始め、獲物を芸術的に食すまでを描くドキュメンタリー番組『ミートイーター』をご存じだろうか。主宰するスティーブンは、その土地の守護者として選んだ獲物を守る義務があると語り、猟期になると全米各地を狩猟しながら渡り歩く。彼が繰り広げる猟師だからこその調理法は興味深い。鹿の心臓を羊膜脂肪で包み、直火で焼く。猪に似たジャベリナの肉を、胃袋に肉詰めして煮る。味わいを追求するのではなく、いかに命を全うするか、その一点にこだわる。今ではシリーズは邦訳され、ネトフリでも観られるようになり、久しぶりにアメリカンアウトドアの世界に触れたくなった。

 アメリカのアウトドア人口は全世帯数の八割にも上り、特にキャンプはコロナ禍で一気に拡大した。対して日本は、登山やハイキング、海水浴といった日帰りレジャーに加え、屋外バーベキュー利用者を足しても二割に満たない。人口比で考えれば、およそ十倍の規模を持つアメリカのアウトドア文化は、彼らの日常に深く根付いている。キャンプにはオフグリッドの要素が詰まっている。自ら背負おうが、車で運ぼうが、必要な道具は自分で持ち込み、野山や海辺で食住を楽しむ。手間やコストを考えればスーパーで買えば済むが、 食糧をフィッシングやハンティングで現地調達することは、何よりもエキサイティングだ。

 仲間に誘われ、アラスカへ出かけたことを思い出す。ケチカンの街から水上飛行機を乗り継ぎ、辿り着いた小島で、大物のサーモンやオヒョウを狙った。夜明け前、ガイドと共にアルミ製の小型ボートに乗り、大自然を満喫した。白頭鷲が空を舞い、鯨が潮を吹き上げる。夕暮れには仲間と獲物を焼き、火を囲んでバーボンを煽る。携帯やパソコンと無縁の数日間だった。漁期終盤だったせいかキングサーモンを釣り上げたのは僕だけだった。本来ならリリースすべきギリギリのサイズだったが、獲っても良いとされたその魚には、Smallest King Salmon Certificate(一番小さなキングサーモン賞)が贈られた。そして夜な夜な語り合ううち、次はハンティングに行こうという話になった。

 まずは講習会に通い、試験に合格しなければ狩猟許可は得られない。基本は鳥獣駆除が目的だが、七面鳥、雉、水鳥、渡り鳥などのバードハンティングと、猪、鹿、エルク、熊といったビッグゲームに大別されている。捕獲した鳥は一羽ごとに、収入印紙のようなスタンプを購入しなければならず、制度は細かく整備されている。こうした大人でも煩わしいルールの上に、専門用語や銃器の扱いが重なるが、英語で学ぶ良い機会だと思い、当時十五歳だった息子と一緒にライセンスを取得した。

 ハンティング仲間のブラッドにも息子がいて、その後、彼は自然への愛着が高じて国立公園局のレンジャーになった。うちの息子とは歳も近いはずだが、妙に大人びて見えた。聞けば、銃を扱うようになって急に成長したという。それならば、フィッシングにとどまらず、ハンティングにも本格的に取り組もうと、親子で足繁く通った。まるでゴルフの打ちっぱなしのようなハンティングレンジでクレー射撃を繰り返し、近場の雉撃ちに出かけた。ガイドはハウンドドッグ(猟犬)を従え、ライ麦畑の中央に立ち、左右に三名ずつ扇状に広がって前進し、少しずつ雉を追い込んでいく。雉が猟犬に見つかると、慌てて飛び立つ瞬間を狙って撃つ。撃って良いのは、前方両手を広げた左右120度、上下は15度以上の高さ60度程度までと厳格に決められている。散弾銃は双発で、撃ち損じれば残りは一発だけだ。 人間本来の生存本能が刺激されるのか、 空腹になるほど獲物を狙う感覚は鋭くなり、一発で仕留めたときの達成感は格別だった。獲った雉は足環の番号を記録し、その場で解体する。肉は持ち帰り、骨は猟犬の餌となる。持ち帰った肉はキャンプサイトで焼いたり、干したりしながら、少しずつ食べる。明日も同じように獲物が得られるとは限らない。だからこそ、その日に全てを食べ尽くすことはしない。

 生きるための手段を、自分で選び取る。自然の中で獲物を追いながら、少しだけ自由に近づけたような気がした。その感覚は、不便をも楽しむどこか懐かしい昭和の景色に似ていて、現代社会から全てを断つのではなく、余計なものを手放すことで見えてくる。オフグリッドとは、結局、そういう引き算の結果なのかもしれない。

 とはいえ、いま野山を駆け回って獲物を追うわけにもいかない。けれど、僕の冷蔵庫にも、ひとつ良い食材が眠っている。地元の漁師から先週もらった鮪が、冷蔵庫の中でほどよく水分が抜けてきた。さっそく、ハワイ産の芋で造った地元焼酎を片手に、オーブンで軽く温燻にして、ゆっくり戴こう。これは料理じゃない、猟理だ。

vol. 26「海馬の扉をひらく香り」

きな粉をまぶして焼いた豚肉は、香ばしい風味でラム酒とよく合う

  先日訪れたタツノオトシゴの人工養殖施設で、何百万匹の孵化から数百匹しか育たず、しかも成魚はわずか数か月でその一生を終えることを知った。絶滅の危機に瀕しながらも、全米の水族館に届けられるその小さな存在のはかなさに、静かな感慨を覚えた。脳の記憶を司る「海馬」は、その姿がタツノオトシゴに似ていることから名付けられたという。記憶もまた、ふとした拍子に姿を現し、すぐに消えてしまう―どこか似ている。鼻先をかすめる微かな薫りは、大脳皮質を通らず海馬を直接揺さぶり、眠っていた時間を巻き戻す小さなタイムマシンとなる。仏文学者プルーストが紅茶に浸したマドレーヌから幼少期を想起したように、記憶の鍵は、意外にも日常の匂いに隠れている。

 たとえば僕の場合、ショッポの煙りは愛煙家だった父を、洗濯洗剤「ニュービーズ」の匂いは母を思い出させる。梅雨の湿気は旧い洋館だった実家を蘇らせ、焼きたてのフランスパンの香りは一瞬で幼少期へ連れ戻す。小学生のころ、フィギュアスケートの早朝練習の帰り、窯から出てくるパチパチと音のするフランスパンを買って帰っていた。家へ辿り着くまで待ちきれず、自転車で走りながら千切って食べる素朴なパンの味は、今でもあの街の風景とともに鮮明だ。その店のフランスから来た職人の下で修業した日本人職人たちは各地に散り、いまも新しい町でパンを焼いている。いつも引っ越すたびにあの味を探し、あちこちのパン屋を巡る。お蔭でこれまで住んだ町のパン屋には詳しい。

 ここオアフ島でも例外ではない。もともと小麦の採れない土地ゆえ、小麦粉の仕入れルートや原産地、職人のルーツによってパンの味は千差万別だ。一押しは島の反対側でベトナム系華僑の一日一度しか焼かないフランスパンだが、すぐに近所の人で売り切れてしまい、うまくタイミングが合わないと出会えない。わざわざ北海道産小麦を使った日本の食パンがあるかと思えば、凡そ似て非なるショクパンをつくるフィリピン系ハワイアンの店もある。最近のお気に入りはイタリア系移民が窯で焼く素朴なチャバッタで、薄くスライスしたモルタデッラハムを挟んでオリーブオイルを垂らして戴く。さらに店先で頬張るならピザの原型、フォカッチャも捨てがたい。職人たちのお国柄が香りとなり、ハワイに居ながらにして、これまで住んだ街に思いを馳せる。

 かつてハワイではネイティブが米を栽培していたという。箸を巧みに操りポケボウルをかきこむ姿は、まるで漁師町の漬け丼そのものだし、ムスビ(おむすび)は三角ではなく四面体で、海苔の上に塩気の強いスパムが鎮座する。農作業の合間に塩むすびを頬張った日本人移民の知恵だろう。未だ大手のチェーン店は上陸していないが、“松坂”の名を冠した牛丼屋があり、これが意外に侮れない。もっともコメはカリフォルニア産ジャポニカ米なので、艶やかで甘みを帯びた日本の短粒種だったら…と夢想していたら、最近できた米屋では玄米を日本から運び、好みの白米に精米してくれるのだから驚きだ。かくしてハワイでは米食文化が根付いている。

 イネ科の穀物といえば小麦、米、トウモロコシ、そしてサトウキビ。マメ科なら大豆、落花生、ソラマメと続く。ハワイで採れた大豆は枝豆、豆腐、醤油や味噌に加工され、さらに焙煎され「きな粉」として流通する。さて今宵は、ロコに教わった“豚肉のきな粉焼き”を試そう。相棒は近所で栽培されたサトウキビから造られ地元産ラム酒。この独特の香りが、またひとつ新たな記憶として刻まれていく。薫りと匂いが運ぶ記憶は、過去と現在、そしてこの島の“イマココ”を静かに結び直してくれる。地産地消の暮らしとは、そんな時間の循環も抱きしめる営みなのかもしれない。

vol. 25 「違いの分かる男」

サイホンで淹れた一杯を、カリフォルニアの土で焼いた茶碗で戴く至高のひととき。

 ダバダぁ~♪と言えば、あのテレビCMを思い出す諸兄も多いだろう。かつて喫茶店で飲むものだった珈琲が、スプーン一杯とお湯だけで出来るなんて、誰が想像しただろうか。大阪万博のあった昭和45年から一連のコマーシャルで爆発的にヒットし、「ネスカフェ」の名はインスタントコーヒーの代名詞になった。その歴史はさらに古く、開発のきっかけは百年前に遡る。当時のブラジルでコーヒー豆が大豊作となり価格が暴落、農民たちが困窮した。政府が余った豆をどうにか活用できないかとネスレ社に頼み、試行錯誤の末、現在とほぼ同じインスタントコーヒーが1937年に誕生した。以来、世界中の家庭に広まってきた。

 ところが此処ハワイでは同じ時期、価格暴落によって栽培が軌道に乗っていたコーヒー農園が放棄されてしまう。その見放された原木を守ったのは移民として入植した日本人だった。こちらは遡ること200年前、ハワイ王国だった頃、カメハメハ二世夫妻に随行していたオアフ島のボキ首長が、帰国途中にリオ・デ・ジャネイロから苗木を持ち帰ったのが最初だという。始めは観賞用として育てられていたが、1828年、牧師がハワイ島のキャプテン・クック地区で本格的に栽培を始めたのがコナ・コーヒーなのだ。今も日本人の名を冠した農園が多く、収穫場を「Kuriba(繰り場)」、乾燥棚を「Hoshi-dana(干し棚)」と呼ぶのも、その頃の名残りだという。

 コーヒーの起源は9世紀のエチオピア、山羊飼いのカルディの逸話に遡る。飼っていた山羊たちが赤い実を食べてやたらと飛び跳ねているのを見て、試しに自分もかじってみた。すると、なんだかハイな気分になったという。彼はこの実を修道院へ持ち込んだが、僧侶たちは「これは怪しい」と火にくべてしまった。ところが、そこから立ち上る香ばしい香りに惹かれ、焼けた豆を集めて煮出してみると芳醇な味わいの飲み物になった。驚いて夜の儀式中の修道僧たちにも飲ませてみると、居眠りもせずに勤行に励むことができた。今ではKALDIの名を冠したコーヒーショップやカフェが 世界中にあり、エチオピア原産のアラビカ種は生産の8割近くを占める。

 そもそも僕とコーヒーの出会いは50年前、幼い頃に決まって連れて行かれた喫茶「エビアン」だ。店の奥でポコポコと沸き立つサイホン、その中でゆっくりと琥珀色に変わる液体が分厚いカップに注がれ、父がうまそうに飲んでいた。店内は煙草とコーヒーが入り混じった香りが漂い、カウンター越しに、いくつものサイホンを操るマスターがいた。壁には古びたカレンダーの画を額に入れただけの素朴な装飾、ヘリンボーンの木の床、小さなテーブルと椅子が並んでいた。休憩時間にちょっと一杯、そんな大人の時間に憧れていたのかもしれない。高校生になった頃、駅前の「にしむら珈琲店」の自家焙煎した豆を挽いてもらい、自宅で喫茶店の味を再現した。ネルドリップにお湯を注ぐと、ふわりと香るその匂いに、なんとなく大人になったような気がした。地元を離れる際、仲間が贈ってくれたのは、サイホンだった。ずいぶん長く、それを愛用していたのが懐かしい。

 それが25年ほど前、ヨーロッパに住むようになってから、好みが一変した。僕はエスプレッソに目覚めた。黒光りした油分の染み出た豆を高圧蒸気で一気に抽出するその一杯は濃厚で、どこまでも深い風味を持つ。食後に欠かせない一杯となりデミタスカップを傾けるのが日常になった。ホルダーにぎっしりと詰めた深煎りの粉に高圧蒸気を通さないと、あの黄金色のクレマは現れない。直火のマキネッタで淹れるモカとは一線を画す味わいだ。そんな本格的なエスプレッソも、「ネスプレッソ」の登場で身近に楽しめるようになり、今ではキッチンの片隅にマシンが鎮座している。こちらもネスレ社の努力に脱帽だ。

 珈琲の起源は千年前、ハワイへ二百年前に伝わりインスタントコーヒーは百年前に生まれた。そして僕は半世紀前からサイホンで嗜み、エスプレッソに目覚めて四半世紀が経つ。今日は、ビッグアイランドの農園焙煎してきた豆をグラインダーで挽いて、サイホンで淹れた一杯を、娘が焼いた茶碗で戴こう。今、この目の前の一杯に、なんだかとてつもなく長い時間をかけて辿りついたような気がするのダバダぁ~。