vol. 24 「鷹、高、TAKA」

” hee-haw ! “と叫びながら、洪水を楽しむ隣人たち

 それは突然のオフグリッド生活だった。豪雨による洪水、停電、さらには浸水、断水、ガスの遮断と、次々とライフラインが途絶えた。これが三日間続いた。いつもの停電なら数時間で復旧するだろうと高を括っていたが、丸一日経った頃から冷蔵庫の食材がダメになるのではと不安になった。翌日には水は引いたものの、ポンプが動かないことには断水が続き、ガス会社が開栓するまで安全弁は遮断されたままだった。WiFiも携帯も繋がらず、停電復旧の目処すらわからない。焦ったところで何も変わらない。とりあえず職場から発電機を借り、冷蔵庫を稼働させ、フロアランプに接続して明かりを確保、携帯も充電した。カセットコンロで湯を沸かし、カップ麺で急場を凌いだ。そんな中、隣人は冠水した道路でカヌーを漕ぎ、四駆車でウェークボードを楽しんでいる。解凍してしまった肉の塊は、どうせ捨てるくらいならと炭を熾してバーベキューとなり、近所の人々がガレージの軒下に集まって即席のパーティーが始まった。先の見えない不安よりも、今の非日常を楽しむ姿には感服する。復旧にはもう一日かかったが、デジタルデトックスの良い経験になった。

 そんな混乱の中、心に浮かんだのはカリフォルニアでの最近の家族の集まりだった。デジタル時代とはいえ、直接顔を合わせられる時間は何物にも代えがたい。家族は僕の好物をよく知っている。ニューヨークスタイルのLOX、クリームチーズを塗ったベーグルにスモークサーモン、スライスした玉ねぎとケーパーをのせたあの味だ。今回は息子がホストになり、検索した評判の良いベーグル屋へ行くことになった。ナビの言う通りにモールの駐車場に着いたが、それらしい店が見当たらない。半信半疑で看板のない店のドアを開けると、そこが目的地のベーグル屋だった。店内に入ると、目まぐるしく動くスタッフたちの手際の良さに目を奪われた。ビジネスは常にスピードと効率が求められる。アルゴリズムから仕入れを予想し、客は入店と同時にメニューをQRコードで読み、オーダーは厨房へまっしぐら、席へ付き暫くすると携帯へメッセージが届き、カウンターで受け取ると決済完了、デジタルがなければ、この店の存在すら知らなかっただろう。LOXを一口頬張る。その味は、良い素材を使い丁寧に作られたことがすぐにわかる。これは間違いなく“当たり”だ。まるで高い空から狙いを定める鷹のように、デジタルは冷静かつ正確だ。カリフォルニアでは、効率よく仕事を進める考え方が主流で、物事を素早く動かすことで利益を増やす仕組みが浸透している。スマホ片手に注文し、待つ間も画面を見つめる人々。便利さの象徴だが、その光景にはどこか味気なさを感じた 。

 ハワイに戻り、人気のパン屋で焼き上がりの香りにつられて行列に並んだ。聞き耳を立てていると、自分の番までに売切れてしまわないよう知らない人どうしが探りを入れている。それに常連客はレジ係に一言二言、その日の出来事を話しているから列が一向に進まない。僕の直前で欲しかったエピは売り切れ、代わりにバゲットを買った。アナログは非効率極まりない。しかし、それを苛立つこともなく日常と捉え、対面で感じる人の温かさや心の余裕が必要なのか。

 難読苗字の「小鳥遊」を思い出す。鷹がいないと小鳥たちは自由に遊ぶことができるから「たかなし」と読む。ハワイには鷹が居ない。まさに小鳥にとっての楽園、水道メーターの下でじっとしているニワトリが居たと思えば、気がつけばヒヨコがよちよちと歩き始め、ガレージの隅ではキジバトが巣作りしている。オフグリッドの混乱を経て、考える。本当の豊かさとは何だろう?

 謎かけをひとつ。デジタルの精密さとかけて鷹の鋭さと解く。その心は、「狙いを定め、無駄なく仕留める」。でも、鷹がいなければ、小鳥たちは自由に遊べる。転じてデジタルは無駄を削ぎ落とし、アナログは遠回りを楽しむとも言えよう。どちらも大事。たまには「たかなし(高なし≒成果がない)」でも、肩の力を抜くのもいいのかも。

 そうか、ここは “たかなし”な 暮らし なんだ。筆者であるTAKAが思うのだから間違いない。

vol. 23 「焼肉じゃない、バーベキューだ!」

牛の肩ロースとサーロインの間にあるのがリブアイ。骨ごと切り出すと インディアンの大きな戦斧、トマホークに似ている。

 大海の孤島で「もう一生会えないかも知れない」と老婆に言われたら、そそくさと辞するわけにはいかず翌朝のフライトまで滞在することになった。ポルトガルの首都リスボンから南西へ1000km、大西洋上の火山島マデイラ島を訪れた20年も前の話だ。その日は、フンシャルから車で半日ほどかけて島の反対側まで向かい、長年の取引先を訪れた時のことだった。留守番をしていた年老いた母親を相手に話が弾み、危うく帰りのフライトに間に合わない。ここは見切りを付けて去ろうとするが、せめて息子が戻るまで待ってくれとせがまれた。時を過ごす中、連絡が取れた息子が戻るには数時間かかると言うので仕方なく延泊の手配を取った。それを悪く思ってか、今夜はウチで食事をしていってくれと懐っこい。再訪を約束して、ひとまず宿へ引き揚げた。数時間後に戻ってみると、自宅にはたくさんの人が集まっている。何事かと聞いたら、折角、来てくれたのだから、皆を呼んだという。僕のことを買い被ってか偉い人が来てくれたと信じて疑わない。そこで振舞われたのが豚の丸焼きとマデイラワインだった。ほんの数時間の間に、息子が近所の人を集め、豚を絞めて準備をしてくれ、総出で歓待してくれた。ローストチキンなら未だしも、豚を一頭丸焼きにする豪快さに度肝を貫かれ、夜更けまで飲み明かしたことを思い出す。

 ハワイ語で土地の境界をアフ プアア(Ahupuaʻa)という。石を積み上げた石垣= アフ(ahu)に 豚 = プアア(puaʻa)が置かれたことから、そういう名になった。首長が豚を税として徴収する際、土地の境界に置かせたことに由来するらしい。そもそも豚は神へのお供え物として扱われ、祝宴や宗教儀式に食す特別な食べ物だった。今では蒸し焼きにされた豚肉料理、カルア プアア(Kālua puaʻa)は人気の郷土料理のひとつになっている。似たような話は、沖縄にもある。琉球王国に招かれた冊封使節団(中国からの客人)は豚肉で持て成された。その使節団は数百人の規模で数か月滞在されたとされ、食糧を賄うため養豚が盛んになったことが今日の沖縄の豚食文化にも繋がるらしい。ハワイでは沖縄からの移民家系はOkinawanと呼ばれ結束が強い。戦後間もない頃、疲弊した沖縄を救うため「生きた豚」を送った人たちが居た。戦災復興させるには食糧支援も大切だが、生きた豚は養豚業の復興に繋がり、糞尿は肥料として畑に撒かれ主食である芋を育てることが食糧難の解消と産業振興に役立った。Okinawanの人たちは資金を募り、米陸軍の輸送船で五百頭余りの生きた豚が海を渡った。循環型産業は5年ほどで10万頭の畜産へ化けたという。

 フランス語で「あごひげから尾っぽまで」を意味するde la Barbe à la Queueは、スペイン語ではBarbacoa、英語ではBarbequeとなり、今日のB-B-Q(バーベキュー)へと繋がる。もともと髭と尾のある動物は鳴き声以外全てを食す意味から丸焼きしたのが由来といえば分かりやすい。慶事があると豚の丸焼きを食す文化圏は世界に広がる。ポルトガルのレイタォン(Leitão)をはじめフィリピンのレチョン(Lechon)、ベトナムのヘォ クァイ(Heo quay)、かつてのハワイ王国も琉球王国もそうだった。

 出会って四十年来の友人が来島した。私が訪日した際は精肉店が営む地元で一番の焼肉屋で饗応を受けた。鉄板や焼網で薄く切った肉を焼きながら食べる「東洋」の「焼肉」だ。今宵はご当地らしく炭を熾して、骨ごと切り出した トマホーク(Tomahawk)を豪快にBBQで戴くことにしよう。ちなみに焼きながら食べるのが焼肉、焼いてから食べるのがバーベキューなんだそうな。

vol. 22 「シュッとしてる」

ハワイへ来てから集めたアロハシャツ。新作もあるけどビンテージが多い。

 国を跨いできた経験から僕の処世術は、ちょっとばかり見たくれを気にしている。その土地に暮らす人たちに同化できれば良いが、ヨーロッパやアメリカにおけるアジア人はマイノリティだし、母語である日本語と現地のことばは余りにもかけ離れているし、そもそも文化的背景も大きく違うから否が応でも目立ってしまう。多くのローカルにとって、今まであまり接したことの無い日本人とあって、最初は客人扱いされ持て成してくれることは嬉しいものだが、いつまでもヨソモノ扱いもされたくない。第一印象は一秒で決まると言われるだけに、せめて相手に嫌悪感を与えないテクニックとして、身なりはちゃんとしておいた方が良いと心がけてきた。

 ヨーロッパで仕事していた頃、事あるごとにドレスコードが求められた。時間や場所、それに与えられた機会に合った服装や所作というものがあるという教えだ。駐在前の日本では皆と同じ横並びのサラリーマンスタイルだった。 親しい友人がイタリア人だった縁で ポルトガルではミラノのモンテナポレオーネ通りで見繕ってもらった伊達男の恰好をしていた。イギリスでは断然、背広姿でロンドンのセビル通りの仕立屋のスーツを纏い、磨き上げた厚底の黒革靴を履いていた。エグゼクティブとして仕事をするようになると、僕自身ではなく組織を疑われてはたまらない。所以、それっぽい恰好をするようになった。

 メキシコに居た頃、シティのタワマンに住んでいた。付近は低層住宅がひしめき、日陰には野良犬が寝そべり、道端はどことなく臭ったが、週末に立つ近所の市場へ出掛けるのは好きだった。ほぼ寝間着と化した着古したTシャツにサンダル履きで出かけたある日、自宅に戻れず往生したことがある。マシンガンを携えた門番が疑いの目を向け IDを見せても ゲートを通してくれず、わざわざ社用専属の運転手を呼んでマンションの車寄せへ付けてもらったことがある。治安の悪い地域では二重三重のセキュリティは大事なポイントで、こういったゲートコミュニティは住人であろうとそれなりの恰好でなければ憂き目に遭う。それが此処ハワイではアロハにサングラス、式典の際にはレイを纏う。神主ならぬ祈祷師が来て、まずは恵みに感謝することが習わしだ。正にところかわれば品変わるのだ。

  転じて、オフグリッドにも矜持があるとすれば、見たくれも大事だと思う。山奥や無人島で暮らすのならまだしも、あくまで現代社会で生き、およそ文明的な暮らしに電気は不可欠だ。ソーラー発電は昭和の時代からあったが、未だに無骨な発電パネルと再処理できない蓄電池の組み合わせが多い。雨水を溜めたドラム缶を風呂代わりにするには少々、野趣に飛び過ぎている。ハワイは全ての電力の再エネへの置き換えに挑戦しているので全米一電気代が高いが、その分個人宅のソーラー発電は、テスラがつくった薄くて壁掛けの液晶テレビのような見たくれで隠れている。ある知人は、購入した住宅にソーラー発電が付いていたので、ハワイ電力への支払いが無いというから羨ましい。我が家はソーラーパネルは無いが地域全体が再エネ電力の供給網で、照明は全てLEDだし、雨水タンクは土中に埋めこまれ、自動ポンプで潅水に使われており、かなりエコ仕様になっている。シーリングファンは回転の方向で上下に風をコントロールできるし、雨季でも暖を取るほど寒くならないから、年がら年中アロハとTシャツ姿で過ごせる。なるほど理に適った格好というわけだ。

 それ見よがしに「オフグリッドやってます」というのは格好が悪い。アロハにグラサンと聞けば昭和のチンピラを想起させるが、ハワイではこれがシュッとしているのだ。

vol. 21 「覆水、盆に返らず」

カリヒポンプ場は1899年から使われ、当時は蒸気機関の揚水ポンプだった

 いまや鯨といえば観るものだが、給食に鯨肉が出ていた昭和世代にとっては、鯨は食糧として広く親しまれていた。さらに時代を遡ると、鯨油は暖房やランプ、産業機械に使用され、鯨骨はコルセットやスカートのフープ、傘、馬車の鞭などに幅広く利用されていた。ハワイには、ニューイングランドの捕鯨船との貿易で栄えた歴史があり、島々の肥沃な土地が捕鯨者たちの食糧や水を賄っていた。ハワイ語で水を「Wai」、湧き出る場所を「Kiki」といい、当時の捕鯨船は、積んだ木樽を小舟で運び真水を確保していた。その場所が現在のワイキキにあたる。さらに公共の近代水道の歴史も古く、1848年には既に井戸からポンプで揚水し、貯水池が地下に設置されていた。

 20世紀に入ると、国防上の理由から太平洋艦隊が1907年に創設され、現在では艦艇約200隻、航空機約2000機、そして24万人規模を有する統合基地へと発展した。1941年、石油需給に窮した日本軍の奇襲攻撃を受けて沈没した戦艦アリゾナは今も真珠湾に眠っている。当時から空襲に弱い地上の燃料貯蔵タンクは地下に移され、近くの山に20基もの燃料タンクが埋設されてきた。その総量は二億五千万ガロンにのぼり、東京ドームに匹敵する容量である。最初のタンクが設置されてから八十年以上にわたり使用され、その間、海軍の艦船は大型化し、空軍基地への軍用規格のジェット燃料供給をも賄われてきたのだから凄まじい。

 帯水層からの揚水による水道システムと真珠湾の統合基地への燃料供給システムは、地中深くに縦横無尽に張り巡らされている。「Red Hill」と呼ばれる火山島特有の赤い土で覆われた山腹の地中浅くに埋蔵された燃料タンク、深くに淡水帯水層が上下に存在する。タンクの老朽化による水源への影響は以前から指摘されていたが、遂に2021年11月、施設内の配管やバルブから燃料が漏れ出し大事な帯水層に浸潤してしまった。この水源から飲料水が供給される地域にはミリタリーハウスが建ち並び、多くの兵士やその家族、軍属が暮らしている。健康被害はたちまち拡がり、汚染物質が洗い流されるまで水道システムは使用禁止措置が取られた。飲料水は紙パックで供給され、9万人もの住民が一時避難を余儀なくされ、応急処置が終わったのは2022年3月だった。結果、立坑からの揚水も中止され、汚染された二か所の井戸は閉鎖された。埋設した燃料タンクからの燃料の汲み取り作業は今も続き、いずれ閉鎖されることが決まった。

 僕はそのタイミングで空き家となったミリタリーハウスのひとつに入居した。今でも我が家には国防兵站局とハワイ州保健局の係官が定期的に水道のサンプル採取に訪れ、米海軍と環境保護庁による説明会が四半期ごとに実施されている。一度汚染された水は飲料水としては不向きで、シャワーやトイレ、庭の潅水には使用できるが、飲料水は配達に頼っている。夫婦二人で月120~150リットル程度を必要とし、無駄遣いをしなくなった。日本にいた頃、蛇口の水質を気にすることはほとんどなかった。この事故をきっかけに、水源に思いを馳せ、水の安全性とありがたさを改めて感じている。「流水は腐らず」と言うが、今回の事故は「覆水、盆に返らず」といったところか。 

vol. 20 「港に辿り着くこと」

船首には等身大のアメリゴ・ベスプッチが水平線の彼方へいざなう

 2年に一度、ハワイ周辺海域で実施される環太平洋合同軍事演習(RIMPAC)が終わった。発表によると参加したのは29カ国、艦艇40隻、潜水艦3隻、航空機約150機、人員2万5000人と桁違いの大規模だった。日本の海上自衛隊から護衛艦「はぐろ」や輸送艦「くにさき」、対潜哨戒機も訓練に加わったが、中でも訓練の指揮を執るアメリカ海軍の原子力航空母艦「カール・ビンソン」は、乗員3400名、航空団2500名、司令部100名、約6000人を乗せサンディエゴからやってきた。排水量10万トンを超える空母が狭い真珠湾へ入港する雄姿はまるで映画のワンシーンを見ているようだった。およそ一か月にわたる公海上での軍事演習に加え、沿岸の攻防を想定した上陸訓練やジャングル侵攻、災害を想定した救難救急、さらに気象学や海洋学シンポジウムなど多岐にわたる演習や訓練を終えた兵士たちは再び艦船に乗り組み、三々五々、真珠湾を後にしていった。

 時同じく もう一隻、 イタリア海軍の船がピア9に接岸した。将校16名、下士官70名、それに水兵を合わせ約200人が乗船した練習帆船の名は「アメリゴ・ベスプッチ」、そう新大陸の発見者であり、彼の名からアメリカという地名は付けられた。この船は1931年の就航以来、イタリア海軍の全ての水兵が士官候補生として訓練を受けてきた由緒ある歴史を今日に紡ぐ。今回は2023年7月にトリエステを出港して以来、欧州から西アフリカ、南米大陸を反時計回りに各港を経由し、ロサンゼルスから約二週間かけてやってきた。ホノルルには一週間の停泊後、次の寄港地、東京まで約一か月かかるそうだ。イタリアへ戻る2025年2月まで、一年半以上の地球一周の航海訓練が続く。まるで15世紀の大航海時代を彷彿させる。

 三年前、再生可能エネルギーのみを使って航行するフランスの「エナジー・オブザーヴァー」がサンフランシスコから20日間かけて機帆走してきた。太陽光・風力の再生可能エネルギーや海水から生成した水素を燃料に用いる世界初の「自立エネルギー型燃料電池船」だ。去年の今頃、トランスパック・ヨットレースに出場した私の旧友チャーリーは、 風を読み帆を操り、 ベネトゥのモノハル艇でロサンゼルスから7日間で帆走してきた。なかなかのツワモノだ。

 空母からヨットまで船の大小あれど一度港を離れるとオフグリッドとなり、どんな状況であれ次に寄港するまで諦めるわけにはいかない。それには飲料水や食糧、船を走らせる動力と燃料の確保、さらに正確な航海術が必要なのだ。順風満帆の日ばかりではあるまい、波瀾万丈な時もあろう、キャプテンもクルーにも判断力と忍耐力が要求される。

「アメリゴ・ベスプッチ」の艦橋にイタリア語でモットーが刻まれている。            

Non chi cominicia ma quel che persevere

「先陣を切る者より、最後までやり遂げる者であれ」と訳する。 そう、作戦をやり遂げるまで、そして港に戻るまで諦めるわけにはいかないということか。 なるほどオフグリッドは生半可な気持ちで向き合ってはいけないんだと改めて思った。

vol. 19 「確かにパリに見えなくもない」

深夜便で訪越すると、朝靄にけむるホーチミンの街並みが眼下に広がる。高層ビル群と古い町並みが同居する懐かしい景色。

 オアフ島よりちょっと広い面積に10倍の人口が住み、かつては「東洋の小パリ」と呼ばれたホーチミンを訪れた。サイゴンと言った方が馴染みの諸兄もいるだろう。メコン河の支流が市内を蛇行し、無数のバイクはまるで滝のように流れる。ハワイで緩やかな時間に慣れた私には隔世の感がある。日の出とともに早朝から歩道にはバトミントンに興ずる老人たち、それを横目に屋台でPhoを啜る出勤前の青年たち、アオザイを来た女学生まで、街に人とバイクが溢れている光景は カオスと表現したらイメージが湧きやすいか。

 ベトナムは市場経済化政策のもと外国資本を積極的に受け入れ、90年代から実質GDP成長率は10%を越え、それはかつて日本が経験した70年代の高度成長期と重なる。港の近くには工業地帯の煙突が建ち並び、農村部から都市部への集団就職や出稼ぎで人が溢れ、物価も給料も右肩上がりだったあの時代だ。ベトナム経済はパンデミックを挟んで現在でも5%以上の成長が続いている。そして同時に経済成長は化石燃料消費とCO2排出を著しく増大させた。それは1986年に経済改革「ドイ・モイ」が始まって以降、15倍以上というから凄まじい。

  約30年前初めて訪れたベトナムは、人々は ラタニアの木の葉でできた「ノン」と呼ばれる伝統的な葉笠を被り、街は自転車で溢れていた。シクロは前二輪、後一輪の三輪車で、前方に乗客や荷物を乗せて車の間を縫うようにゆっくり動いていた。今と比べるとまるでスローモーションのような動きが懐かしい。 車やバイクも排ガス規制により4スト化や電動化が進み、格段に個々の車体はクリーンになったが、それを凌駕する数が靄がかかったように空を曇らす。

 僕の幼少期、「光化学スモッグ注意報」が発令されると体育の授業は中止され、給食を食べたら下校措置となりガーゼのマスクをして家路を急いだものだ。半世紀を経て、ここベトナムでも同じ風景に心がざわつく。経済を優先することの代償がどれだけ大きなものか我々は知っている。電気の無かった時代へ戻れとは言うまい。せめて都会の空気が澄んでいることを願いたい。

vol. 18 「日本人からオフグリッド!?」

近くにカリフォルニア大学バークレイ校があり、ノーベル賞をもらうと構内駐車場がもらえる。受賞者は既に56人を数える名門。

 とある週末の朝、高齢のご婦人たちはベーグルを片手に麻雀に興ずる。サンフランシスコの対岸にあたるイーストベイには70年代の倉庫を改装しスタートアップで起業したマイクロブリューワリーやコーヒーショップが点在している。通りをワンブロック隔てるとホームレスが焚き火をするようなヤバいエリアなのに、おおよそ数十ミリオンの投資が集まるのだから不思議だ。ロボットが「手作り」したベーグルにロックスと呼ばれるスモークサーモンとクリームチーズを挟み、近くの別の店でエスプレッソを買って来てブランチにしてみた。これだけでチップを入れて$30(約4800円)するのだ。

 東京でベーグルにコーヒー1杯ならワンコインだと思うと10倍の価値が無ければならない。ひっきりなしに訪れる近隣の住人とおぼしき人たちは、軽装で見るからに着飾った人はひとりも居ない。毛並みの艶やかな犬を連れ、タブレットを片手に颯爽と店を後にする。店の滞在は5分、中にはスケボーで現れた若者も居た。テック系なら20代で10万ドル以上稼ぐのが当たり前だという。この辺りは、どちらかというとガツガツしていないスマートオトナが多く自分らしく生きているらしい

 前日はこの近くで昼間から呑んだ。入れ墨をしたスキンヘッドのバーテンダーに、これまた倉庫を改装しただけのパブだった。隣席のオッサンは携帯片手にのニヤニヤしている。良いことがあったのかと訊ねたら、お前も一口乗るかと出資を誘って来た。知人がスピンアウトしてマイクロワイナリーを興す話があるらしい。儲かるのか?の愚問に、俺はゲームは好きだが賭け事はしないと続く。なんだこの大物な感じは。

 なるほど此処はそういう人たちが棲む街なんだと気付いた。投資が投資を呼び、高い技術や新たな仕組みでビジネスを興し、互いを侵害することなく下町のような持ちつ持たれつな付き合いで、今を刹那的に生きている。そういえばこの近くのマリーナで働いていたウクライナ人も、借りたボートのオーナーはフランス人だし、牌を握るご婦人はイタリア系移民らしい。もはや国籍や人種は無縁のこんな場所に身を置くと、僕も日本人からオフグリッド出来るのかも知れない。

vol.17 「この黄、なんの木、気になる樹」

花盛りを迎えたトランペットツリー(和名 コガネノウゼン)。その木材はハードウッドの代表格イペ。

 日本といえば桜と富士山と言わんばかり4月はインバウンドでたいそう賑わったそうだ。季節感の無いハワイに住んでいると、これまで暮らした国々の春の風景が懐かしい。この時期、オランダではチューリップが一面の畑に咲き誇り、ドイツでは林檎の木が白い花を咲かせ、ポルトガルやメキシコシティではジャガランダ(ハカランダ)の紫色の並木道に目を奪われた。カリフォルニアに居た頃、郊外のアーモンド畑の花盛りは、まるで青森の津軽平野そのものだと感じたものだ。郷愁を誘うというのか、海外に住んでいると折に触れ日本の原風景を思い出したりするものだ。

 自宅から勤務先である大学への道すがら、並木道に黄色い花が満開の時期を迎えた。密集したラッパ状の花をつけた樹木が2マイルほど続いている。桜のように花が咲き終ってから葉が出てくるのだが、樹によって咲く時期がまばらで、まばらに散っていく。このところ風の強い日も多く、咲いたと思ったら散ってしまった木も少なくない。南フランスで咲くミモザのような色をしているが、花弁はブーゲンビリアかフリージアのようで、その鮮やかな黄色はグラデーションではない。この原色とも思える黄色、そういえば子供の頃に好きだった黄色だと思い出した

 神戸に隣接した小さな街で生まれ育った僕は、共働きの両親のためか、祖父母と出掛ける機会が多かった。それは祖父の仕立ての洋服の採寸にお供したり、祖母の帽子の色合わせに出かけたり、その帰路にデリカテッセンでハムを買ったり、昔ながらの焼きたてのドイツパンを買って帰るのが楽しみだった。当時、外食は特別なものだったし、間食はほとんど許されなかったから、祖父母の用事についていくことで何か美味しいものを買って帰るという一連の時間が好きだった。桜といえば祖父の職場に近い造幣局、祖母の実家に近い御所の八重桜だったし、実家の庭には初春の梅や木瓜(ボケ)、春は泰山木(タイサンボク)や木蓮(モクレン)の白い花、初夏の藤棚、夏の朝顔といったパステルカラーの花ばかりだった。それなのに濃い黄色が好きだったのは、その祖父母と出掛けた神戸元町に咲いていた黄色い花のせいだと気が付いた。

 最初の日本人移民は1893年に遡り、1924年排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡って農地を開拓しコーヒーやサトウキビを育てた。相前後して1908年から1973年の移民船廃止まで25万人の日本人がブラジルへ海を渡った。1971年まで外務省管轄の神戸移住センターが港を見下ろす山本通にあり、移民船は神戸港から出航した。全国から集まった人たちが、ブラジルへ渡る前にポルトガル語教育を受け、渡航前の数日間を神戸で過ごしていた。これから生涯を過ごすだろうまだ見ぬ国への憧れか、センターから埠頭までの道すがらに植えられていたのがこの黄色い花を咲かせるコガネノウゼンだった。そうだ、幼少期に見た黄色、今私が見ているイエロートランペットツリー、そしてこの樹木は目の詰まった美しいハードウッドの代表格イペでもあり、ブラジルの国樹でもある。時や場所を越えて全て同じこの樹だとやっと気が付いた。

vol. 16 「ゆったり暮らす」

雨季で付近は冠水し停電した。水面に映る青空と我が家に見惚れるココロの余裕が必要。

 人生でだいたい四回の引越しを経験するらしい。それは結婚や転勤、マイホーム取得など人生の節目にあたることが多い。かくいう私も転勤に伴って数十回と引越しを繰り返しいつも借家住まいだ。その度に子供達は転校を余儀なくされ、国をも跨いできた。任地には必ずIKEAがあって品番を覚えられるほど同じシリーズを買い求め、組み立てた本棚に蔵書が収まるとそこが我が家になった。さすがに東京に戻った時はサイズが合わずニトリで揃えた。どれも手頃な価格でその時々に生活スタイルに合わせた暮らしを手っ取り早く手に入れることができた。駐在の場合、前任者から譲り受け後任する人へ譲り渡すモノも多く、そうやって天下の回りモン的生活を送ってきた。学齢期の子供が居るとデスクやカウチ、パソコンも必要だし、電圧が変わると家電も買い替えなくてはならず出費も大きい。それに新学期が始まるまでに用意しなくてはいけないので時間にも追われ、便利をオカネで買うことになっていた。

 ハワイへはパンデミックの中、赴任した。職場が大学ということもあり、ひとまず学生寮で寝泊りしながら仕事に就いた。すでに子供達は成人し米本土で暮らすようになったので焦ることはなかったが、いつまでも学生寮に居候するわけにもいかない。何よりも寮はアルコール禁止なのが私には辛かった。ホノルルの町以外、森か海か軍の施設しかない島暮らしなので住宅事情は宜しくない。苦労して見つけたのが今の平屋で、高い家賃の割に造りは安普請で今どき見なくなったジャロジー窓だ。ルーバー窓といったほうが伝わりやすいか、細長い何枚もの板ガラスが重なり、ブラインドのような構成となっているアレだ。昔、風呂場の窓がそうだった。角度を変えることで換気が出来るが、断熱性が悪く防犯上も宜しくない。それに横のルーバー窓に縦のブラインドは風が吹くとカタカタうるさい。利点といえば、割れた板ガラスを一枚でも替えることができるくらいだ。

 その平屋暮らしも2年が経った。最初のうちは コットと呼ばれるミリタリーで使う簡易ベッドに寝ていたし、キッチンがバーカウンターのように延びているので食事にも困らなった。これまでのように引越荷物を送るのも面倒だと思っているうちにお決まりの本棚はe-bookに置き換わった。 やがて近所のガレージセールを物色するようになり、お隣りさんの引越しを手伝ったらカウチやテーブルをもらった。センスのいい食器もニュージーランドからやってきた老夫婦から戴いた。最近の「目っけモン」は、ダイソンの掃除機で、掃除機を掃除するのが嫌になったという米兵から譲り受けた。分解掃除をしてみると、なるほどペットを飼っていたのか絡まった毛を掃除するとすぐに使えるようになった。こうして家電や家具がほぼ揃った。都会暮らしはせわしい。元来、やらなくてよいことでもやらなくてはならないと思い込んでいたのかも知れない。時にはゆったりと成り行きに任せると回りモンに出会える。

vol. 15 「不便がゆえの贅沢」

凝った料理では無いけれど

 東京に暮らしていた頃、朝にアマゾれば夕方には配達され、居ながらして地球の裏側のモノでさえ楽しめた。生鮮品は近所のスーパーが即配してくれたし、OISIXは献立まで考えた食材が半加工して必要な分の調味料と共に届いた。配達料は無料か安価で、もはや近くのコンビニでさえ不便に感じていたのだから皮肉なものだ。

 転じてハワイの生活は極めて不便だが不条理では無い。特に食材は、人の手が加わると忽ち人件費が掛かり、姿かたちを変えると加工費が嵩み、さらにテイクアウトでさえチップが18%、スマイル0円などというサービスは見かけない。最近、カリフォルニアから上陸したファストフードのChick-fil-Aのバイトの時給は18ドル、日本円で換算すると2500円程度。週末にドライブスルーの受渡しのシフトに入ると4時間で更に100ドル以上のチップが手に入るという。時給に換算すると軽く5000円を超えてくる。結果、日本から見るハワイは物価が高いと短絡的に感じてしまう。いかに日本の常識が世界の非常識になってしまったのか、あの手の込んだラーメンが1000円で食べれる国はもはや世界の何処にも無くなってしまった。

 東京と同じように便利で合理的な生活をするなら、恐らく5倍以上のコストがかかる。所以、そんな調子に乗ったことは出来ない。外食の頻度は激減し、レストランのテイクアウトよりスーパーの惣菜コーナーを利用するようになり、更にファーマーズマーケットに通うようになった。肉は塊りだし、魚は丸ごと、野菜には土が付いている。小分けになっていない分、帰宅したら仕込みをしなくてはならない。そして少しずつ工夫して日を変えて食していく。新鮮なうちは、肉は赤身を残すくらいのレアな焼き具合で、魚は刺身で素材の味を楽しむ。

 ハワイには赤い塩と黒い塩がある。火山土壌の赤土や活性炭を混ぜた天日の海塩だ。フィンガーライムという木の実はライムの香りでレモンの酸味がある。ずっと昔にポリネシアからカヌーでやってきた同じルーツを持つハワイとニュージーランドは今でも近いから、魚屋にはいつも地元のマグロとNZの鮭が並んでいる。今日は迷ったけど鮪の半値のキングサーモンを買ってみた。切り身に黒い塩とフィンガーライム、皮はじっくり焼いて香ばしく、そして地元のサトウキビで造ったラムと戴こう。醤油や山葵が無くとも、なんとも贅沢な食事だ。